2016.9.30 06:32/ Jun
先だって、クリフォード&マーカスの「文化を書く」という本を読みなおしました。
詳細は省きますが、この本は、1990年代、文化人類学のエスノグラフィーにポストモダンの新風を吹き込んだ理論書で、僕の学部時代だったか大学院時代だったかに手に取った記憶があります。
当時、何の機会だったか忘れてしまいましたが、僕は、あまりにも難解なこの本を、何人かで読みました。エスノグラフィーを書いた事のない人間が、エスノグラフィーの現状を憂う本を読んでいるのですから、今から考えれば汗顔ものですが、それはそれで、みなで本を読むのは楽しかったのかなと思います。
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久しぶりに手に取った「文化を書く」ですが、おそらくは20年くらい前の筆跡でいろいろなメモが書いてあります。
興味深かったのは、その書籍に頭部に、ロランバルトの言葉が引用されているのですが、かつての自分が、ここに大きく赤鉛筆で丸印をつけていることでした。
少し長くなりますが、引用してみましょう。
最近、さかんに論じられている学際的研究とは、既存の学問が顔をつきあわすことではない(事実、どんな学問も、そんなことは望んでいないのだ)。
学際的に事をなすには、1つのテーマを選び、そのまわりに2〜3の諸科学を集めるだけでは不十分である。
学際性とは、どの学問領域も属さない新しい対象を生み出すところにある。
(ロラン・バルト)
うーん、含蓄のある、しかも沁みる一言です。
ロランバルトが、今の学術の様相をみたら、どんな一言をもらすのかな、と思って読みました。
思うに、どうやら、この世には「1つのテーマを選び、そのまわりに2〜3の諸科学を集める学際」が充ち満ちているような気がします。
たいてい、学術シンポジウムなどで、
「ほにゃらら学の立場から」
「ほげほげ学の立場から」
とシンポジストが登壇し、それぞれの立場から、意見を表明し、「みんな違って、みんないい」になって議論が拡散して終わるのは、そのようなものの典型でしょう。
バルトは、こうした知的態度に異をとなえ、「本当に学際的である」ことを考えました。
バルトによれば、本当に「学際的」であるとは「どの学問領域も属さない新しい対象を生み出すこと」であるといいます。
非常に含蓄のある言葉ですね。
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今日はクリフォード&マーカスの書籍にあった1節から、学際的であるとは何かを考えました。
久しぶりに手に取った「文化を書く」は、以前読んだときとはまったく異なる読み応えがありました。
でも、書籍のここかしこに残されているメモを見ると、「おんなじところで、おんなじようなことにひっかかってるわ・・・あまり成長してないな」とも、同時に思います。
ま、昔から「変わらない」といえば、「変わらない」のですけれども。
そして人生はつづく
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