2015.9.11 07:30/ Jun
「経験から学ぶ」とは「賭け」のようなものである
これは前著「経営学習論」(東京大学出版会)に、僕が、ボルノウらの哲学を引用しながら書かせて頂いた内容です。
一般に「経験から学ぶ」とわたしたちが口にするとき、脳裏にうかぶイメージは、この国に根強くはびこる「現場主義」と共鳴し、「ロマンティックなもの」であり、「ノスタルジック」な響きさえ感じさせる「よいイメージ」であることのほうがほとんどです。
しかし、実際に人が「経験から学んだ」というとき、そこに展開されるリアリティは、それとは真逆の「生々しくも、苦しい、ドロドロ血のようなリアリティであること」がほとんどです。
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「経験から学ぶこと」が「賭け」である最大の理由は、まず、それが、「全メンバーに対して均等に配分されるようなタスクのような業務経験」というよりは、そもそも、みなが経験できない「組織の中でも最も重要なタスク」であるということに由来します。
それは、そもそも、成功するか、失敗するか、わからない「賭け」のような業務経験です。当然、経験から学ぶことには、「失敗」や「試行錯誤」がつきまといます。
しかし「組織にとって重要な仕事」で、「失敗の可能性」もありうるということは、その人の組織の中でのキャリアにも影響を与えうるということです。失敗するすれば、下手をすれば将来も危ぶまれます。
この意味で、経験から学ぶことには「生存不安」「リスク」が常につきまいます。成功するか失敗するかはわからない。下手をうてば、キャリア上の「生存」さえ脅かされる。
ちなみに申し上げておきますが、経験から学ぶ世界に「効率性」もへったくりもありません。なにせ、それは「賭け」なのですから。賭けをするとき、効率を考える人はいないでしょう? 効率を考えるなら、多くの賭けは成立すら難しくなるでしょうから。
そして「経験から学べた」と呼べる人は、それを「乗り越えた人」です。「生存の不安やリスク」を背景に「賭け」にでて、見事帰還した人だけが、「オレは経験から学べた」というセリフを口にすることが許されます。だから、経験から学べたという言説は、いつだってロマンティックです。それは勝者の帰還の物語なのだから。
経験から学べたというのは、本来、そういう生々しく、ドロドロしているようなもののように僕には思えます。
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今日は「経験から学ぶ」ということについて書きました。
仕事柄、よく
うちの会社は、これから、経験学習を導入しようと思うんですよ
という言葉を耳にするのですが、そういう言葉を耳にするたび、僕なんかは、「おー、それはめちゃくちゃ大変ですねーーー」「どSさんと、どMさん的世界ですねー」と思っちゃいます。
しかし、そういう思いを僕が持ってしまうのは、経験から学ぶことにまつわるイメージが「ハード」であることに由来するのかもしれません。そこには巷間に流布する「経験学習」のイメージと僕のイメージに齟齬があるような気がします。
そして、自らの身体を「経験」に向けて投企することがしんどくて、苦しくて「賭け」のようなものであるからこそ、わたしたちは「他者の経験を通じて学ぶ」ということが重要になってくるのだと思います。
変化の早い時代だからこそ、自ら動いて学ぶだけでは不足する。そうしたとき、わたしたちは、他者の経験から「代理学習」をすることになります。
他者の経験からいかに学ぶか・・・
また話が長くなりそうなので、そのことについては、また今度書きます。
そして人生はつづく
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