2015.8.28 06:26/ Jun
職業柄、「教えること」を日々行っているせいかわかりませんが、僕は1年間に数回、やや発作的に「教えられたい症候群」にかかってしまうことがあります。
僕が罹患してしまうのは、「誰かの先生につき従いながら、自分は”学習者”として居合わせ、とにかく教えられたい」ーそういう症候群です。単に「教えられる」だけではないのです。むしろ、「どMなくらいに教えられたい」(笑)。もちろん、学ぶべき事は自分の好きなことなのですけれども、中途半端に教えられるのではなく、むしろ「ひーひー」言わせてほしい(笑)。ちょっと危ない病気です。素人さんにはおすすめできません。
しかし、これは、ある意味で、僕の日常を「倒錯」した事態とも言えるのもしれません。
といいますのは、仕事柄、ふだんは、自分自身が、誰かに対して何かを教えたり、学んでもらったりすることがほとんどです。
しかし、年に数回、カーニヴァル(もともとは日常と非日常の反転・倒錯の機会ですね。バフチン的世界?)のように、これを「逆転」させたくなるのです。ふだんの自分を消し去り、「誰か」を「先生」とよび、教え導かれたくなってしまうのです。
「喩え」はあまりよくありませんが、この背景にあるのは、「教えること」が「自分の中にある蓄積を外にはきだすこと」のように思えるからなのかもしれません。
ふだんは、他人に対してアウトプットばかりしているから、だんだんと自分の内面に「蓄積」がなくなる。そう、茨木のり子さんの詩ではありませんが、教えることを繰り返していると、僕は「パサパサ」に「乾いて」きます。嗚呼、もう胃液も出ない(笑)。そんなとき、自分という水瓶に水を注ぐがごとく、インプットをもとめて、「日常の倒錯状況」をつくりたくなるのかもしれません。
なんか、どMだの、倒錯だの、カーニヴァルだの、ひーひーだの、わかるかな?
誤解されそう・・・(笑)
ごめん、気にしないで。
でも、こういう病気にかかる方、他にもいらっしゃるでしょう?
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先だっては「学び?」ということでもないのですが、お坊さんのご指導をあおぎ「座禅」に挑戦しました。
最近ですと人材開発の領域でもストレスリダクションのニーズが高くなっており「マインドフルネス」とか「マインドフルネス認知療法」いう概念が、注目されることが多くなっておりますね。そういう背景に加えて、自分の仕事もなかなかストレスフルなので、直接お坊さんから座禅を学んでみようと思い立ちました。座禅は、これまでにも経験はありますが、お坊さんに指導をうけるのははじめてでした。
座禅をくみながら、自分の吐く息に集中しつつも、これも、いわゆるひとつの「日常の逆転だよな」と思っていました(嗚呼、煩悩が抜けない)
・足を組むという非日常動作
・猫背を伸ばすという非日常的な姿勢(オフィスワーカーはともすれば猫背気味になりませんか?)
・過去をみつめない、未来もみない、「今」を生きるという知的態度
・他者をたちきり、自己をみつめること
残念なことに、はじめての座禅は、10分を超えたあたりから、身体がユラユラしはじめてきたので(寝てるわけではないのだけれども、おそらく上半身を支え切れていない)、ダメダメ座禅初心者の見本みたいな状況になってしまいましたが、なかなか興味深い体験ではありました。
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今日は、「教えられたい症候群」について書きました。
かくして、そんなわけで、ここ1ヶ月ほど、自分の興味のあることを「学びたくて」学びたくてしょうがない衝動にかられています。夏休みもそろそろ終わり、仕事も本格化してくるので、そうもいっていられないのでしょうけれども(笑)。
そして人生は続く
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