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2015.6.16 06:22/ Jun

「いかに見るか」と「何を見るか」!? :N=3000とN=1の狭間で僕が思っていたこと

 僕がまだ学部学生の頃、学会などでは「質量論争」?というのがあったような記憶があります。分野にもよるのでしょうけれど、僕の分野では、当時、質的研究が紹介されはじめた頃で、人々の注目を集めていました。
 学会のシンポジウムなどでは、「質でいくべきか、それとも量か」といったようなテーマがかかげられ、両陣営のオジサマたちが熱のこもった議論をなさっていました。
 僕はというと、最初のうちは「質」に興味をもっていたような気がします。が、少し目が醒め、どちらかというと「ニュートラルな立場」を築くにいたるまで、それほど時間がかかりませんでした。
 
 世の中の議論を聞いているうちに、まことに恐れ多く、申し訳ないことですが
「僕には、どっちも話も、なんか、のれないんだよね」
 と思うようになったのです。
「自己の独自の世界観」を「他方」に押しつけ、「だから、おまえはわかっていない!」みたいな、いわば「宗教論争」のような議論には、小心者の僕は、すこし気後れしました。だって、怖いんだもん。
 また、議論の仕方が「ロジック」というよりは「感情」に左右され、まことに申し訳ないのですが、「品」が失われていることも少なくなく、ビビリな僕は、いたたまれなくなってきました。あのさー、落ち着こうよ。
 かくして、他の方はまったくご自由になさればよいとは思いますが、自分自身は「方法論の議論をする / かかわるのはやめよう」と思いました。
 実際は、そうこうしているうちに「質か? 量か?」という問いの立て方はめっきり少なくなったと記憶しております。
  ▼
 思うに「質か、量か」という認識の枠組み自体に、僕が興味をもてなくなった最大の理由は、それらの議論が「何を言うか?」と切り離されてなされることが多かったからです。「何を見るか」「何を残すか」というコンテンツから切り離されて、方法論が議論されるという奇妙な事態が、どうにも僕には気後れしてしまいました。
 たとえばフォーラムなどをするのでしたら、「ある同じ(ような)対象を見ている人たちが集まって、そのうえで、質か量か?」なら十分その意義が理解できます。
 しかし、実際はそうではありません。
 「全く違う対象を見ている方々」が集まって「みんな違って、みんないい」的な議論になったりすることも少なくありません。
 時には、「質量論争自体に興味があって、自分としては研究で何も見ていない方」ないしは「自分としては質的研究を一度もやったことがないけれど、質的研究が何か?には一家言もっている方」が集まって、まことに「微笑ましい議論」をなさっていることもありましぃた。
「やりたいことによって、何の道具を使うかなんか、自由にすればいいじゃない」
「質か、量か、どちらがいいかなんか、やりたいことによるんじゃないのかなぁ」
「質だの、量だのを他人に押しつける議論をするまえに、自分で何を見ているのかを教えてよ」
 まことに恐れ多くも、当時、学生の僕はそう思っていました。
 本当に生意気な学生で申し訳なく思います。
 それに、もうひとつは「研究の面白さ」って「N」によるのかなと考えていたところもあります。
 一般に、量的研究は「浅くてペラッペラ」と言われますが(!?)、それは本当でしょうか。僕にはそう思えません。それは「問いの立て方」による。
 「N=3000」でも、読み手にぐぐぐと深く差し込んでくる研究はあります。もちろん「N=3000」でも「それわかって、いったい、何が面白いの?」という研究も少なくありません。「そんなの、N=3000まで増やさなくても、みんなわかってるよ」(泣)自戒をこめて申し上げますが、そういう研究を生み出しかねない危険が量的研究にもあります。
 逆に「質的研究」は「深い」と言われますが、本当にそうでしょうか。「N=1」の中に「今を生きている人々」の「生の教え(Eisner 1991)」が宿っている研究がたしかにあります。こういう研究には、ぐぐぐと引き込まれます。
 一方で、「N=1」で確かに「深い」んだろうけど、先行研究のしめしたフレームを、個別具体的な別々の対象で再認しつづける研究もあります。
「ちょめちょめの領域でも・・・ほげほげの言っていることが確認できた」
 たしかに深いけど、それって「イシュー」なんでしょうか。
 僕にはわかりません。
 要するに、質量論争とは一線をかくし、僕がもっとも心を砕きたいのは「いかに見るか」ではなく「何を見るか」であり、「何を残すか」です。
 要するに、ワンセンテンスでいえば「問いの立て方」。
 僕の場合でしたら(僕の問いの立て方は極端です)、
「現場の人々に味わってもらえる問いとは、どんな問いなんだろう?」
「現場の人々に刺さる問いとは、どんな問いなんだろう?」
 を常に考え、「どんなメッセージを残すか?」のみを考えたいと願います(くどいようですが、僕の問いの立て方は極端なので、他人にはおすすめできません)。
 もちろん、100回やって数回くらいしかうまくはいきません。が、できるのだとすれば、自分の時間は、そうしたことに使いたいと思います。僕に残された時間は、そう長くはありません。
  ▼
 今日は「質か、量か」という、少しヘビーな内容について書きました。これは分野によってもいろいろあるんでしょうから、他の分野のことについては、僕は知りません。それぞれの領域の議論は、それぞれのプロフェッショナルな方々におまかせします。
 ちょっと前のことになりますが、先だって、某学会を通り過ぎたとき、「質か?量か?」というシンポジウムの垂れ幕をみて、懐かしくなりました。
 20年前より、どんな風に議論が発展しているか、見てみたい気持ちもありましたが、TAKUZOとKENZOのお迎えのため、家路に急ぎました。
 そして人生は続く
 

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