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2015.4.16 06:12/ Jun

「気合い・根性・精神論のスポーツ指導」から「問いかけて考え抜かせる選手育成」へ!? : 上野山信行(著)「日本のメッシの育て方」を読んだ!

「学ぶことをやめたら、教えることもやめなければならない」
 フランス・サッカー代表監督 ロジェ・ルメール
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 朝っぱらからまことに恐縮ですが、僕は、これまで全くの「思い違い」をしていました。まずは、本日のブログを書くにあたり、自分の「浅学」と「視点の狭隘さ」を「恥じること」からはじめたいと思います。
 僕が衝撃を受けたのは、ある方のおすすめにより、上野山信行(著)「日本のメッシの育て方」を読んだことからはじまります。この読書経験が、スポーツやスポーツ指導の世界に対する僕のイメージを一新させるきっかけになりました。

 本書「日本のメッシの育て方」は、「サッカーのスポーツ指導とはいかにあるべきか?」を論じている次世代のスポーツ選手育成の指南書です。
 Jリーグが誇る希代の育成コーチであり、かつて、宮本恒靖、稲本潤一、宇佐美貴史らを育てた上野山信行さんが、ご自身のサッカー指導・後輩育成のメソッドをおしげもなく披露しています。
 希代の育成コーチである一方、上野山さん自らも貪欲な「学び手」であるといいます。冒頭紹介させて頂いたロジェ・ルメール監督の言葉「学ぶことをやめたら、教えることもやめなければならない」は、本書に何度か繰り返しでてくることばです。
 そして、上野山さんのお考えと、彼の豊富な事例が、僕のスポーツやスポーツ指導に対するイメージを変えました。
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 といいますのは、これまでの自分は、スポーツとは「体力と精神力と根性の世界」であり、まことに申し訳ないのですが、「自分には関係のないもの」と、思ってきました。
 昨今にいたっても、体育会での体罰やら、スポーツ指導の不条理さが問題になり、紙面を賑わすこともありますが、スポーツの選手育成とは「体力と精神力と根性の世界」なのだろうと思っていたのです。そうしたイメージにて色眼鏡で物事をみていたことを、まずはお詫びいたします。
 しかし、そのように思うことには理由もあったような気もします。
 まず、それほど体力にも恵まれなかった僕には、「スポーツは自分には関係ない」し、そこでどのような育成が行われていようとも、それは僕の研究分野の「育成」とは違う世界のものなんだろう、と思っていた節もあります。
 これまで自分が受けてきたスポーツ指導?も、僕が、そのように考えることの後押しをしていたようにも思います。それは、おおよそ「考えること」とは対極にある世界のように僕には思えました。
 たとえば、スポーツ指導?の世界は、たとえてみれば、
 「狙ったところにシュートするためには、よく見てシュートをするんだ」
 
 的なトートロジー?(同語反復)が跳梁跋扈する世界でした。
 少し考えてみればおわかりいただけるように、「よく見ること」は「狙うこと」です。よって、上述の文章は「狙ったとおりにシュートするためには、狙ってシュートする」と解釈可能です。
 要するに、ここが大学院ならば、僕は「その論理って、トートロジーだよね、1ミリも現象を説明していないじゃん」と言い放つと思います。1ミリも現象をかみくだいて説明していないのだから、「指導でも何でもない」。
 あるいは、こんな風にも思いました。スポーツ指導の世界とは、
 「熱意を持ち続けられるかどうかが、最後のねばりを決めるんだ」
 的な根性論、精神論が幅を聞かせる世界なのかな、と思っていました。
 監督やコーチといわれる人は、たいていマッチョで、機嫌悪そうで、怖く、よくわかんないけど竹刀とかもっていてマスクしていて、グラウンドや体育館で怒鳴っている。そういうものがスポーツ指導なんだと思っていました。
 もちろん、そうしたことも必要??なのかもしれませんが、僕にはピンとこないし、敢えて、自分をそうした世界から「切断」して生きてきたような気がします。
 
 現に、僕は、生まれてこの方、野球やサッカーをしたことも、見たことも、「ほぼゼロ」に近いと思います(数回はあるけど・・・)。ナイター中継も見ないし、ワールドカップだろうが、何だろうが、一切みない。
 しかし、本書を読んで、それは少し狭隘なものの見方だったなと思い至りました。
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 本書にて、上野山さんの語るスポーツ指導は、全くそれとは一線を画するものでした。
 上野山さんは、よいサッカー選手とは「自分の頭で考え抜くことができる選手」であるとし、そこで必要なのは「知力」だといいます。
 そして、「自分で考えぬく姿勢」は、決して、教え込みや根性で学ばれるのではなく、「問いかけること」や「具体的な助言」で学ばれるのだとしています。
 なぜ、そうするのか?
 それで、世界にいけるのか? 何をすればいいのか?
 必要なのは、こうした「問いかけ」と、「具体的な助言」だというのです。「根性でねばれ」と叫ぶことではないし、「あーしろ、こーしろ」と「教え込むこと」でもない。「メッシなら、あと30センチねばれる。どうしたらいい?」と声をかけることが、重要なのだといいます。
 
 サッカーなどのスポーツをご存じの方は何をあたりまえと思うことかもしれませんが、それとは縁遠い場所に生きていた僕としては「衝撃」でした。
 そして、それは、自分の研究分野とスポーツが、ひょんなことから「接合」した瞬間だったような気もします。
  ▼
 上野山さんは、本書冒頭、子どもに関する、ある詩を取り上げています。原典はよく存じ上げませんが、その思いに感銘を受けます。

 おそらくは、この詩をもって、上野山さんは、「育成の仕事とは、現在の世代をまっとうにつくることでもあり、かつ、次世代をつくること」であると述べたいのかなと勝手に解釈しておりました。
「子ども」 ドロシー・ロー・ノルト(米国の教育学者)
批判ばかりされた子どもは、非難することをおぼえる
殴られて大きくなった子どもは、力にたよることをおぼえる
笑いものにされた子どもは、ものを言わずにいることをおぼえる
皮肉にさらされた子どもは、鈍い良心のもちぬしとなる
しかし
激励をうけた子どもは、自信をおぼえる
寛容にであった子どもは、忍耐をおぼえる
賞賛をうけた子どもは、評価することをおぼえる
フェアプレーを経験した子どもは、公正をおぼえる
友情を知る子どもは、親切をおぼえる
安心を経験した子どもは、信頼をおぼえる
可愛がられ抱きしめられた子どもは、
世界中の愛情を感じとることをおぼえる
 そういえば、昨日の大学院の授業では、育成の科学、すなわち「人的資源開発」にたずさわるものには、倫理や信条が大切であることを講義しました。
 あたりまえのことかもしれませんが、スポーツ指導の世界に必要なのは、育成する側の哲学や倫理、そして科学ではないかと思います。
 人間とは何か?という「育成の哲学」、コーチやトレーナが守るべき「育成の倫理」、そして経験的、科学的裏付けのある「育成の科学」ではないかと思った次第です。
 「批判」され、殴られて、怒鳴られてスポーツ選手になった子どもは、必ず、そのことを「再生産」するものです。かくして理性あるスポーツ指導は、現在の世代のみならず、次世代をつくることにも、つながっています。
 上野山信行さんは、こんな言葉も残しておられます。
 育成でしか、世の中を変えられない
 そして人生は続く
  ーーー
追伸.
 僕に本書を教えてくれたのは、ヤフー執行役員の本間さんです。先だって行った打ち合わせの最中に、「中原さん、絶対、好きですよ」とおっしゃりながら、本書を教えてくれました。新しい世界をありがとうございます。
 これからは、スポーツ指導論?の本を大量・大人買いして、読みあさろうと思います。この場を借りて感謝申し上げます。

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