NAKAHARA-LAB.net

2014.11.3 07:06/ Jun

コルトハーヘン先生による「リフレクション学」スペシャルワークショップが終わった!:リフレクションという名の「詰問」「教え込み」「だらだらトーク」を超えて!

 先日11月1日・2日に、八丁堀にある内田洋行様の東京ユビキタス協創広場で、フレット・コルトハーヘン名誉教授(ユトレヒト大学)をお招きした「リフレクション学」スペシャルワークショップを無事終えることができました。
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「リフレクション学」スペシャルワークショップを開催!? : ユトレヒト大学・コルトハーヘン名誉教授をお招きして
http://www.nakahara-lab.net/blog/2014/06/post_2240.html
 まずは、素晴らしいワークショップをしてくださったコルトハーヘン先生、参加者の皆様、そして関係者の皆様、会場設営をコラボしていただいた内田洋行の皆様に心より感謝いたします。ありがとうございました。
 こちらのワークショップのお申し込みに関しましては、お申し込み開始から数時間で締め切らなくてはならないほど、多くの方々から関心をいただきました。心より感謝いたします。そして入ることのできなかった方々に、心よりお詫びいたします。心苦しい限りでしたが、やむなくの状況でした。
 当日は、ビジネス教育、教師教育、看護教育、医療教育など、各界から約50名の参加を得ました。ご参加頂いたみなさま、本当にお疲れさまでした。11月の三連休の2日間を、リフレクションにあてる、という希有?な方々に、ご参加頂きました。ありがとうございました。また感想などをお聞かせ頂けますと幸いです。
 以下は、コルトハーヘン先生のワークショップをききながら書いた僕のメモです。主にコルトハーヘン先生のリフレクションについてまとめ、その諸特徴を論じています。
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 当日は、坂田哲人先生(青山学院大学)の司会のもと、コルトハーヘン先生のリードでワークショップが進行しました。
 コルトハーヘン先生が行ったワークショップ、そして、様々なアクティビティがどのようなものであったかは、なかなかひと言で申し上げるのが難しいです。しかし、その特徴をワンワードでのべるのならば、ワークショップの構成・進行自体が、いわゆる「入れ子(nest)」になっていると言えると思います。
 どのような「入れ子(nest)」と申しますと、「リフレクションの入れ子」です。
 すなわち、コルトハーヘン先生のファシリテーションのもと「参加者自らがリフレクションをすること」で、「他者に対するリフレクションの促し方を学ぶ」ということになっているということです。
 別の言葉で述べるならば、「コルトハーヘン先生が実践者として参加者にいかにしてリフレクションをうながすか」を、参加者として観察・体験し、参加者自らもやはりリフレクションを為すことで、「リフレクションとは何か?」を学ぶという構造になっています。
 「入れ子型のワークショップ構造」をとっている理由には、「あなたがリフレクションを促す人になりたいなら、自分自身がリフレクションできる人になりなさい」という信念が見え隠れします。リフレクションを学ぶこととは「リフレクシヴィティの環の中」に自らを投げ込むことでもあります。
(ちなみにコルトハーヘンさんが世界的に評価される理由は、リフレクションの意義を、自ら場を組織しつつ伝えることができる希有な人材であったということでしょう。世界には、リフレクションの理論や意義について詳しく知っている人は多々います。が、その多くは、それを伝えるときのやり方が、ノンリフレクティブで、ノンインタラクティブであることの方が多いものです。つまり、リフレクションについて語ることはできても、自ら実践することはできない、ということです。対してコルトハーヘン先生は、絶妙なバランスで、リフレクションについて語り、かつ、実践を行うことができるのです。今後、コルトハーヘン先生のよう方のなさるワークショップを体験したことがきっかけとなり、さらに若い世代が、こうした研究者のあり方(Being)に興味をもってくれるのだとしたら、僕は、このあたりにこそ可能性を感じます)
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 コルトハーへン先生のリフレクション研究は、別名、「リアリスティックアプローチ(Realistic approach)」とも呼ばれています。
 誤解を恐れずひと言で述べるならば、リアリスティックアプローチとは、
1.学習者が、「リアルな日常の経験」を「リフレクションすること」を通して、学ぶ形式である
2.そのプロセスを通して、学習者がすでにもっている学術的知識(大文字の理論:Theoryとよばれます)と、日常の経験から形成された実践知(小文字の理論:theory)を「むすびつけること」をめざす
 ということになるのだと思います。
 ここでも最も大切なことは、コルトハーヘン先生のリアリスティックアプローチとは、1で見るように学習の源泉として「リフレクションという認知過程」を重視していることです。しかし、「リフレクションという認知過程を重視している」といっても、そのことで「学術的に産出された知識(理論:大文字の理論)を個人が把持することを否定している」というわけではないということは、強調しすぎても強調しすぎということはないでしょう。つまり、それが最もわかりにくいところです。
 誤解を恐れずいえば、専門家育成の機会として「学術的に産出された知識(理論)」が伝達され、個人がそれを把持すること」は問題ないのです。それは貴重なリソースでありますが、しかし「単独の学習の源泉」ではありえません。
 「学術的に産出された知識(理論)」は、リフレクションという認知プロセスをへて、個人の経験からつくられた教訓的持論(実践知:小文字のT)と結びつけられなくてはなりません。ここが最も誤解されやすいところだと思います。すなわち、一般には「リフレクションさえしていれば、学術的に産出された知識・理論なんていらねーよ」という「反知性主義」が生まれやすいのです。
 ワンワードで述べるならば、リアリスティックアプローチは、
 知識(を蓄積すること)か、リフレクションか
 という「二分法」や「トレードオフ」思考をとりません。
 対して、世にはびこるリフレクション議論、そしてこれまでのリフレクションにまつわる学術的議論は、ともすれば
「振り返りさえすれば、Catch ALL!(知識に関しては不問に付す)」
 となりがちのですが、それを明確に否定しています。
 コルトハーヘン先生が主張しているのは、「大文字の理論(Theory : 学術的な知)」を活かしつつ、「小文字の理論(theory:持論)」とコネクトすることであり、その機会としての「リフレクション」なのです。
 さらに踏み込んでいうならば、リフレクションを促す資格のある人は「大文字の理論」についても精通していて、しかし、それでいてリフレクションを他者に促し「小文字の理論」との結合を果たせる人と言うことになります。
(世の中には「実践を教える」という理由で、大文字の理論を全く知らない実務家が、教育機関に採用されることもあります。そうしたことの是非はまた別の機会に論じるとして、コルトハーヘン流の解釈をするならば、そのことは「実務を教えたことにはならない」ということになると思います。「大文字の理論を全く知らない実務家」は「小文字の理論=経験知」しか語ることができません。本当に必要なものは、「大文字の理論」と「小文字の理論」の結合ーすなわち、「リフレクションによる学術知と実践知のコネクション」ということになります。だとするならば、「実践を教えること」にとって2つの可能性がありえます。それは「実務を担ってきた人が、大文字の理論を学び、リフレクションを促すことを憶えるか」、それとも「大文字の理論を学んできた人が、実務を知り、さらにリフレクションを促すことを憶えるか」です)
 ちなみにコルトハーヘンが「知識か、リフレクションか」という「二分法」を敢えて超える「脱二分法「的議論」を敢えて為すことには、理由があると思われます。それは、リフレクションには「メリット」もありつつも、「デメリット」も存在するからです。
 リフレクションは、個人が、そのコンフォートゾーン(快適ゾーン)を抜け出した挑戦的経験を為すとき、それとセットとして実施されたときには、明確に「自己成長の契機」となりえます。
 また、リフレクションをへて、意味づけられた経験に、人はオーナーシップ(当事者意識)を感じるものです。これらはリフレクションの明確なメリットです。
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 しかし、一方で、リフレクションには「デメリット」も存在します。それは、ひとつには「経験の先行性」から生じます。
 要するに、リフレクションからの学習が生起するためには、「リフレクションに値する経験」が「先行」している、という条件があります。「リアルな経験のないもの」には、「リフレクションからの学習」は随伴しないのです。
 また、リフレクションは、「リフレクションに値する経験」に「後続」する特徴をもっているので、場当たり的、かつアドホックになりがちです。それは一般に人々の経験が「場当たり的」であるゆえ、やむを得ません。
 そこで喪失しやすいのは「全体像」、すなわち「big picture」に他なりません。このあたりは学術的知識や大文字の理論で補完する必要があります。
 また、リフレクションを為すためには、時間がかかり、また少人数にしか対応できないということも特徴のひとつです。対して、導管で知識を注入するような学習のあり方は、Cost effectiveです。
 このような特性から、リフレクションは、学術的知識の存在を否定せず(反知性主義に陥らず)、それらに「アドオン」するものとして存在し、位置づけられることが非常に重要ということになります。
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 それでは次に、私たちは、具体的にリフレクションをいかに促せばいいのでしょうか? 
 コルトハーヘン先生は、ALACTモデルを提唱します。
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 ALACTモデルについては、下記の書籍に詳しいので、詳細を論じることを避けます。が、要するに、経験学習を2次元化して示したモデルです。

 
 経験学習の2次元化モデルといいますと、マネジメント教育では「Kolbの経験学習サイクル」、看護教育ではGibbsのモデル(こちらよく看護領域では引用されているようです。が、僕自身はまだ原典を探せていません)などがありますが、コルトハーヘン先生のものもそれと似ています。
 敢えて最大の違いを述べるのだとすると、ALACTモデルは、振り返りの内容に、認知的な内容(例えば行為や思考)のみならず、感情を扱っているところにあると思います。
 それが典型的にあらわれるのは、振り返りをうながすための8つの質問です。これらは「他者にリフレクションを促すためにコルトハーヘン先生が用意した質問項目」で、主に1の行為の際に用いられるものですが、特に注目するべきは(○)の部分だと思います。
  自分は何をしていたのか?
  自分は何を考えていたのか?
  自分はどんな感情をもっていたのか?(○)
  自分は何をしたいのか
  相手は何をしていたのか?
  相手は何を考えていたのか?
  相手はどんな感情をもっていたのか?(○)
  相手は何をしたいのか
 コルトハーヘン先生のALACTモデルでは、振り返りの内容に、明確に「感情」が含まれています。別の言葉で申し上げるなら、自分と他者の「感情」のズレ(不一致)を意図的に用いることで(当然二人の人間がいれば、感情にはズレが生じます)、思考に揺さぶりをかけているということになります。
 
 そして、ALACTモデルで最も大切なのは、第三段階である「本質への気づき」にあります。
 コルトハーヘン先生は、この省察モデルの「第二局面」から「第四局面」に飛び込む人が多いことを嘆き、それを「Action-oriented reflection」と呼んで、警鐘を慣らします。
 むしろ、彼が望んでいるのは、第三局面の「もっとも大事な、本質的なことは何か」に関する思考をともなう「Meaning-oriented reflection」にあります。その契機になるのは、8つの質問に代表されるような「わたしの見え」と「あなたの見え」との「不一致」です。
 ここ数年の彼は、この不一致に「わたしの中での不一致」ーすなわち、自分のもつ信念体系と行為の不一致を扱い、特にポジティブサイドに着目したものを「コアリフレクション」と呼んでいます。詳細は、下記をご覧下さい。

 ちなみに、このコアリフレクションについては、僕は、これら2つの書籍を丁寧に読み込んでいないせいもあり、理解は最後までできませんでした(withinの方は読みました!)。
 省察モデルの第三フェイズに至る「不一致」の中で、当初、コルトハーヘン先生が強調していたのは、間主観的な不一致、すなわち自己と他者のあいだのズレです。しかし、おそらく、それではリフレクションの駆動を説明できない事態が生まれ得るのでしょう。それが「自己の内部(inside self)」へのズレの省察ではなかったと思います。
 自己の内部に起こる不一致の契機としては、たとえば自己の深遠な部分「信念体系」や「表出した行動」等との、Fliction(摩擦)などがありえます。そして、ここまでなら僕は理解ができます。
 しかしここからの論理展開はまだ未発達であり、今後の発展が期待される部分であるように感じます。個人の深遠な信念体系を投射する理論的基盤が、ポジティブ心理学や心理的資本論となっており、個人のコアクオリティを投射するのはポジティブサイドから行うべきだ、という議論がなされるのですが、少なくとも僕の理解では、ここの論理展開に段差を感じました。
 もちろん、個人の内面を彫り込む際に、ポジティブサイドに注目せざるをえないのは、やむなきことともおもいます。個人の内面に彫り込む以上、そこからネガティブなフリクションが噴出してしまえば、それこそ自己崩壊の危機を呼び込むという「実務遂行上の課題」が生まれ得るからです。しかし、「だからといって」、自己の内面のコアクオリティを二分割すること、また、そのいちのポジティブサイドに焦点をあてなければならないというのは、やや性急すぎる議論のように思います。ここを理論的に理解したい思いが、僕の中には高まりました。
 むしろ<わたしの内面>に彫り込む際に、ポジティブ / ネガティブというダイコトミーを超えることーあるがままを受け入れることが大切なのではないかと、個人的には僕は思います。
 その意味では、同じ学習でも「わたしに向き合うこと」を正面に見据え、そのプロセスを往復書簡のかたちで記し、あたかも読後は、ひとつの良質なワークショップを受けたかのような気になる下記の書籍「せんせいのつくりかた」が、僕は好きです。これはもしかすると、僕の「好きこのみ」の問題かもしれません。
(ちなみに、下記の書籍は書名は「せんせいのつくりかた」ですが、扱っている内容は、他の職種でも十分通用する内容だと思います。今年で最もおすすめできる書籍のひとつです。ちなみに著者の岩瀬先生は、今回のコルトハーヘンさんワークショップにも参加なさっていました。お疲れさまでした)
 「わたしに向き合うこと」を主眼としつつも、いわゆる「あり方病(Being病)・・・ファシリテーションなどを論じるときに、個人の資質や存在にとにかく焦点をあてがちな議論」に陥るのでもなく、一方で「やり方病・・・ファシリテーションなどを論じるときに、やり方・手続きの盲目的習得をめざす短絡的議論」に陥るのでもなく、絶妙なバランスをとっているところが凄いところです。

  ▼
 さらに、それでは次に話をすすめます。
 次の話題は「個人レベルのリフレクション」ではなく、「グループでのリフレクションを促すため」にはどうすればいいでしょうかということです。前段でも申し上げましたように、リフレクションとは「経験」を彫り込むことでもあります。それは時に痛みを伴うことですし、ふだん、それを覆い隠している日々の私たちにとっては、違和感をともなう時間でもありえます。かくして、リフレクションを個に閉じるのではなく、集合的レベルで行うことのニーズが生まれ得ます。
 コルトハーヘン先生は、これを説明するためのモデルとして、1)事前構造化、2)経験、3)構造化、4)焦点化、5)小文字の理論の獲得からなるモデルを提唱しています。
 少し言葉が固いので、勝手気ままに中原が名づけるのであれば、下記のようなプロセスともいえるでしょう。
1)事前構造化(グループに対する問いかけづくり)
 経験の中で特に、皆で振り返りに値するものにフォーカスをあて、問いをつくること。フォーカスをあてないリフレクションは、だらだらトークになります。
2)経験の内省(振り返り)
 個々人が経験の振り返りをなすこと。
3)構造化(見える化)
 各人の経験と、経験の振り返りを、グループ全員に見える化し、議論の俎上にのせること。
4)焦点化(くらべっこ)
 各人の経験を持ち寄って、差異・同じ点を同定すること
5)小文字の理論(持論づくり)
 グループで各人の経験を持ち寄ることで持論を形成すること
 ということになりますね。
 ▼
 さて、最後に、コルトハーヘン先生の考えるリフレクションの諸特徴について、勝手気ままに書いてみましょう。ここでは2つだけ述べます。
 まず、第一に考えられることは、既述しましたように、コルトハーヘン先生のリフレクションは、「リフレクションの内容にしめる感情の割合」が非常に大きいことです。特に、最近の彼は「感情」に関する議論に、多くの時間をさいている印象があります。
 コルトハーヘン先生は「行動の氷山モデル」を提示し、目に見える「行動」の海面下には、「考えていること」「感じていること」「欲していること」が隠されているとし、そこを掘り下げるリフレクションのあり方を模索しています。
hyozan.jpeg
 これまでリフレクションは、いっぱんに「Cognition(認知・思考)」の範疇のものとして語られることが多かったように思います。しかし、コルトハーヘン先生は、むしろ、「Cognitiveなもの」「Logicalなもの」より「Emotion」に重心を置きつつあるような気が致しました。そして、そのことは、わたしたちにひとつの重い課題を投げかけます。
「わたしたちが、現場で他者にリフレクションをうながすとき、どこまで、その人の感情に踏み込んでいいのか?」
「スキルと心のないファシリテータが、他者にリフレクションをうながすとき、超えてはならない一線を越えてしまうことはないのだろうか?」
 ということです。
 皆さんはどのようにお考えになりますか?
 第二にあげられるのは「リフレクションする内容についてのフォーカス性」があります。
 コルトハーヘンさんのリフレクションは、一般的なリフレクションの議論と比べて、「Look backするべき対象にかなりフォーカスがあてられることが多い」のです。実際、ワークショップにおいて、コルトハーヘン先生から繰り返される言葉のなかで最も多いもののひとつは「in one word」「in one sentense」でしょう。
 要するに、自分の経験した内容を、一語で、ワンセンテンスで述べるのだとすると何になるか、というかたちで、強制的かつ焦点をしぼったリフレクションを可能にする言葉です。また「Focus」という言葉や、「Narrow」という言葉もよくでてきます。
  ▼
 かくしてコルトハーヘン先生のリフレクションワークショップは終わりました。個人的には、上記のように様々な理論的諸構造を意識しながら、自分の専門とする「企業内の人材開発に用いるのだとすると、どうするだろうな?」という観点から常に聞いていました。
 これを企業内で実施する場合、もっとも障害になるであろうことは、「リフレクションをうながす不一致をつくりだすための視点ずらし」にあると思います。
 コルトハーヘン先生のリフレクション空間には、感情、思考、行動、願望という4つのレベル、そして俯瞰的モード(ヘリコプタービュー)と現象モードという2つのモードが存在しており、それらが縦軸・横軸をなしながら、リフレクションが遂行されます。
 おそらく、この「視点移動」は、一定のトレーニングを行ってからではないと実施できないだろうなと思いました。特に、一般の人々は「俯瞰と現象」という2つの相反するモードーすなわち「メタにあがる思考」には不得手なものです。個人的には、これを行うための事前ワークを考えているところです。
 ちなみに、一方で、僕の専門とする企業内の人材開発には、リアリスティックアプローチと名乗ってはいませんが、それに類することは、かなり普及しつつあるように感じます。
 最近は「知識や理論を導管型で詰め込む」だけの講義を見ることは、かなり少なくなりました。むしろ、リアリステックアプローチが行きすぎている感もあり、ちょっと心配になってしまう感じでもあります。リアリスティックアプローチ風を標榜するあまり、反知性主義に陥ったりしているものも見かけます。またリアリスティックなのはいいのですが、そのスキルが低いため、「惨いグループワーク」やら「惨いワークショップ」「惨いワールドカフェ」が横行していることも、よく耳に入ってきます。
 もうひとつ考えていたことは、「リフレクション」というバタ臭い言葉を用いなくても、我が国の職場には「リフレクション」にかわる行為が埋め込まれていたのではないか、という疑念です。
 たとえば、企業内の学習の観点からすれば、僕はかつて、組織学習の国際学会に参加した際、海外の研究者にこう言われたことを憶えています。
「日本の研究者が組織学習の国際学会にきて、何を学ぼうとするのか? 日本では、日々の営みを振り返り、常にカイゼンしつづける職場あるのではないか? 組織学習という概念は、特別にバジェットがくまれなければ、日々の営みを振り返り、皆で話しあい、カイゼンをしようとしない国でこそ、生まれうる概念なのだ。なぜ、日本の研究者が、それを学ぼうとする?」
 もしかすると、日本の伝統の中には、「振り返り」やそれを組織レベルで展開する「組織学習」という概念が、日々の生活の中には埋め込まれていたのかもしれません。しかし、それは今失われつつあるのかもしれない。もし、リフレクションという言葉がわたしたちの職場や仕事に埋め込まれていたという意味で「古くて」、しかし「新しい」概念だとしてうつるのであれば、それこそが悲報です。
 しかし、一方でこうも思います。
 リフレクションというものが、日本の伝統的な働き方の中に存在していたとしても、わたしたちは、それが失われつつあるまで、言挙げして、概念化しようとはしてこなかった。むしろ、それを「あうんの呼吸」で伝わるものとして省みないできた。研究者は、それを概念化してこなかった。いや、概念化はしてきたかもしれないけれど、それはコルトハーヘンさんがやるように、伝えてはこれなかった。
 だからこそ、ここで必要になる態度は、「もともと日本にはリフレクションがあった」と思考停止するのではなく、そこから先に進むことではないか、と。
 かつて日本にあったリフレクションの伝統にねざし、それでいて新たな時代に対応した、リフレクションに変わる言葉を「創り上げること」であると僕は思います。
 地に足のついた概念創造ーすなわち「自分たちの文化的ルーツに根ざしたリフレクションにかわるワンワードの創造」こそ、求められていることなのだと僕は思います。
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 最後になりますが、企画代表者の坂田哲人先生、そしてコルトハーヘン先生、そして、通訳を務めて下さった野口晃菜さんに感謝いたします。本当に素晴らしい場でした。
 本企画は、勝手に!?リフレクション学ワークショップ実行委員会によるもので、経営学習研究所からは吉村春美さん・町支大祐さん・脇本健弘さん・松浦李恵さん、そして僕が企画立案に参加しました。
 教師教育学研究会からは、坂田哲人先生のほか、当日は矢野博之先生、武田信子先生がご参加になりました。山辺恵理子さんは、当日参加できませんでしたが、資料の翻訳をしてくださいました。
 内田洋行教育総合研究所の平野智紀さんにも心より感謝いたします。本当にありがとうございました。
 今回嬉しい事のひとつは、リフレクションという「横串」のもとに、ビジネスの人材開発、人事の方々、教師教育の方々、看護・医療教育の方々が集まることができ、かつ素晴らしい対話・議論ができたということです。リフレクションというそもそも社会に様々な波紋をもたらす概念の発展には、こうした学際的な場こそふさわしいと僕は感じます。ここで、また新たなつながりが生まれることを願っています。
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 ちなみに、リフレクションワークショップは、これでまだ終わりではありません。2014年12月13日(土)(勝手に!)リフレクション学会?と称して、@東京大学でフォローアップセッションを行います。リフレクションの事例発表などをしていくつもりです。詳細については、決まり次第ご連絡いたします。
 リフレクション、さらにその「先」へ
 そして人生は続く!
 最後に、こちらはリフレクションムービー!

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