2014.10.29 06:51/ Jun
先だって、ひょんなことから、糸井重里さんがやっておられる企画で「40歳は惑う」という企画があることを知りました。もしかすると、ネット等でかなり有名になっている企画だそうなので(僕は経緯は知りません)、ご存じの方もいらっしゃるかもしれません。
40歳は、まだ惑う!?
http://aera.1101.com/
ゼロになってちゃんともがく
http://aera.1101.com/itoi.html
この記事の中で糸井さんは40代を「トンネル」にたとえ、
(下記同サイトからの引用あり)
ぼくにとって40歳は25年前
暗いトンネルに入ったみたいで
つらかったのを覚えている。
としたうえで、
(40代の)つらさは
自分がまだ何者でもないことに悩む、
30歳を迎えるときのつらさとは別物
だとします。
40代とは、子育てや介護などの
「ライフイベント」が襲い始める
時期でもあります。
そして、
30代の万能感をもってしてもクリアできない
社会の「理不尽さ」に直面するときでもあります。
そして、その上で、糸井さんは、こんなアドバイスをします。
ぼくはゼロになることを意識するよう心掛けた。
仕事は何でも引き受けるんじゃなく厳選した。
ワクワクすることが見つからない人には、
ひとつだけアドバイスがある。
「絶対にやりたくないことからは逃げる」
と心に決めること。
これは逆説でもあって、
「絶対に」が付かない程度の、
文句を言いながらやれることなら、
逃げずにやり遂げろということ。
▼
上記の糸井さんの問題提起に対して、今年39歳になる僕も、非常に共感できるところがあります。僕の場合、まだ40代に片足をひっかけているだけですが、今の自分を「ゼロリセット」したい思いが、数年前から、ふつふつとわいてきているのです。
腹をくくって
環境を変える。
研究のテーマを厳選し
もう一度
初心に返って学び直す。
もう一度
異なる角度から
挑戦してみたい
実際、数年前から、今までの自分だったら絶対にやらないことを、いくつもチャレンジしています。「先生として過ごす時間」ではなく、「ひとりの学び手として生きる時間」を意識的に、可能な限りつくっているつもりです。
確かに、糸井さんのいうように、39歳になる自分には、「将来に曙光すら感じられなかった30歳前後」のときのような切羽詰まった思いはありません。そして、まことに不遜ではありますが、少し何かをやり遂げられたかのような「プチ達成感」(達成感ではない!あくまでプチ達成感!)はあります。
しかし、この延長上にいて、残りの研究人生、仕事人生を「そのまま」やり過ごすには、あまりにその時間が「長い」。
どこまで社会福祉が持ち堪えられるのか専門家ではないのでわかりませんが、おそらく、僕たちの生きる社会に「定年」という概念は、今よりも、色褪せたものになっていくだろう。
そう、仕事人生を終えるまでには、時間が本当に「長い」のです。そして、そうであるならば、そんな「長い人生」を逆手にとり、まだ見ぬ地平を、もう一度開拓してみたい。そう思うようになりました。
事実、研究をはじめてからもう15年以上がたっていますが、何一つ、満足できた気がしません。
どんなに調査をしても、どんなに分析をしても、ほんのすこしだけ「わかること」が増え、それをはるかに上回る量の「わからないこと」が増えていく。
「わかったこと」が「1つ」増えれば
「わからないこと」が「3つ増える」
研究とは、その繰り返しです。ひとつひとつの研究を終えれば、プチ達成感はありますが、しかし、いつまでたっても「不満足」で、「不機嫌」なのです。おそらく、今の延長上には、この解決の方法はない。
そうした「わからないこと」に対して、今までとは違うやり方で、取り組んでみたい。今は、そんな気持ちでいっぱいです。
▼
自分は、「人生の転機」と思える瞬間には、いつも一遍の詩が脳裏に浮かびます。
それは、いつか教科書で目にした詩で、「あの坂をのぼれば」といいます。作家は杉みき子さんという方だそうです。
詩の中で、作者は何度も自己に問いかけます。
あの坂を登れば、海が見える
あの坂を登れば、海が見える
あの坂を登れば、海が見える
自分も、「あの坂をのぼれば海が見える」と思って、ここまで、いくつもの「坂」を登ってきたような気がします。しかし、まだ僕に「海」は見えません。それどころか、「潮騒の響き」もしません。今もなお、坂は、目の前に広がっています。
いったい、いつになったら、坂を登り切ることができるのか。
いったい、どこに海がひらけてくるというのか?
そのとき見る海は、「あのときの自分」が見たかった海なのか?
そこで耳にする潮騒の響きは、少年の頃、僕が聞きたかった音なのか?
あの坂を登れば、海が見える
人生は短いようでいて長く、長いようでいて短い。
しかし、間違いのないことは1つだけある。
それに「終わり」は、間違いなく、ある。
あの坂を登れば、海が見える
もう少し峠は続きます。
そして人生は続く
—
「あの坂をのぼれば」
杉みき子
あの坂をのぼれば、海が見える。
少年は、朝から歩いていた。
草いきれがむっとたちこめる山道である。
顔も背すじも汗にまみれ、休まず歩く息づかいがあらい。
あの坂をのぼれば、海が見える。
それは、幼いころ、添い寝の祖母から、
いつも子守歌のように聞かされたことだった。
うちの裏の、あの山を一つこえれば、海が見えるんだよ、と。
その、山一つ、という言葉を、
少年は正直にそのまま受けとめていたのだが、
それはどうやら、しごく大ざっぱな言葉のあやだったらしい。
現に、今こうして、峠を二つ三つとこえても、
まだ海は見えてこないのだから。
それでも少年は、呪文のように心に唱えて、のぼってゆく。
(中略)
あの坂をのぼれば、海が見える。
少年は、今、どうしても海を見たいのだった。
細かくいえばきりもないが、
やりたくてやれないことの数々の重荷が背に積もり積もったとき、
少年は、磁石が北を指すように、
まっすぐに海を思ったのである。
自分の足で、海を見てこよう。
山一つこえたら、本当に海があるのを確かめてこよう、と。
あの坂をのぼれば、海が見える。
しかし、まだ海は見えなかった。
はうようにしてのぼってきたこの坂の行く手も、
やはり今までと同じ、果てしない上り下りの繰り返しだったのである。
もう、やめよう。
急に、道ばたに座りこんで、
少年はうめくようにそう思った。
こんなにつらい思いをして、
坂をのぼったりおりたりして、いったいなんの得があるのか。
(中略)
あの坂をのぼれば、海が見える。
少年はもう一度、力をこめてつぶやく。
しかし、そうでなくともよかった。
今はたとえ、このあと三つの坂、
四つの坂をこえることになろうとも、
必ず海に行き着くことができる、行き着いてみせる。
(中略)
少年の耳にあるいは心の奥にか、
かすかな、潮騒の響きが聞こえ始めていた。
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