2013.12.6 08:33/ Jun
「研修とワークショップは何が違うのか?」
先日、ある機会に、この問いが話題になりました。
以下の話は「研修」を「授業」と読み替えても、たぶん、読むことができると思います。もしご興味がおありな方は、ぜひ、読み替えいただき、下記のお話をお読み頂ければと思います。
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「研修とワークショップは何が違うのか?」
この問いを目の前にして、自らが「ワークショップを研修と対象づけることで差異化させたいと願う場合」、当然のことながら「研修とワークショップは違うよね」という結論が導かれることになると思うのです。
その後、「なぜなら、研修は一方向だけれども、ワークショップは双方向」とか「研修には答えがあるけれど、ワークショップにはない」とか「ワークショップは創造をめざすけれど、研修は学習をめざす」という根拠を提示しそうになりがちだと思うのです。
ただ、僕の認識に関する限り、この結論と根拠には、少し違和感が残ります。正しく言えば、違和感というよりも、多くの例外がありすぎて、安易にこれらを分節化することはできない、という結論を導き出さざるをえません。
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なぜなら、最近の研修は、グループワークやダイアログなどが組み入れられる場合が少なくないので、学習のあり方、たとえば「双方向性」をもって、研修とワークショップを分節化することは、なかなか難しいものがあります。
研修といっても、いろいろなものがあります。研修は、特定の作業を憶えるとか、マナーを憶える、といったものばかりではありません。
また、研修もワークショップも、企業内部で行われる限りにおいて、ある意味でも「落としどころ」が決まっており、「落としどころなさ」ということをもって、それらを分節化することも、また難しいことになります。
人材開発とは、組織の戦略実現・目標実現のために実施される営みです。つまり「落としどころ」「めざすもの」は絶対にある、ということです。それから遊離することは、そもそもの目的を失います。
また、ワーショップは「創造」を行い、研修は「学習」をめざすというのも少し違和感が残ります。研修の中には、ビジョンをつくったり、新規事業提案を行うものもあります。
活動自体も多様です。研修も、身体活動を取り入れたもの、創造をめざすものが多々あります。オブジェをつくったり、作品をつくったり、そのプロセスの中では、様々なことが行われます。
このようなことから「創造」と「学習」を対象づけて、研修とワークショップを分節化することも、また難しいのだと思うのです。
要するに、「よくデザインされた研修、ないしは高次な内容を扱う研修は、多くの人々が頭に思い描く、いわゆるワークショップ」になっていくし、「配慮がたりないワークショップは、多くの人々が脳裏に思い描く、いわゆる研修」に近くなる、ということです。
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このような事態が生じる理由・背景を、さらにほじくり返していくと、ワークショップという言葉も、また、研修という言葉も、いわゆる「アンブレラワード(多くのものを包摂してしまうような傘のような曖昧な概念)」であることに気づかされます。要するにどちらも「ザクっとした曖昧な大風呂敷概念」なのです。「曖昧なもの」を2つ重ねたところで、でてくるものは、余計曖昧になるだけです。
まず、前者に関して。
こちらに関しては、以前、どこかで書いたような気がするのですが、ワークショップとは「アマチュア性:誰もが教え手になり、誰もが学び手になることができる」という思想、「アンチフォーマル性:学びとはフォーマルな場で必ずしも起こるものではない」という思想、そして、「個人は学びの主導権をもつことができる:イニシアチブ性」群によって、ゆるく、やんわりと大風呂敷的に包まれた「オルタナティブなムーブメント」のようなものであると僕は理解しています。
対して、一般的には、ワークショップを規定するときに、「手法」や「コンテンツ」で規定することが試みられますが、それでは多くの例外が生まれてしまうのです。
だって、冷静に考えてみれば、これはなかなか難しいことがわかります。「ワークショップ」という名称を関した場において、採用されている「学習手法」も、「学習内容」も多種多様でしょう?
造形、まち作り、アート・・・学習内容は、いろいろあるでしょう。ワールドカフェに、グループ学習、個人創作、ジグソーメソッド・・・学習手法だって、いろいろあるでしょう。
何がいいたいか、というと、研修とワークショップを、1)学習の手法や実現される学習のクオリティ、2)めざす目的、3)アウトプットで分節化することは、多くの例外を生み出してしまいます。
ワークショップという言葉は、その背後に流れる思想、歴史的背景を考えると(1900年代初頭のプラグマティズム、60年代アメリカのヒッピーカルチュア、人間性回復運動)、「社会・秩序の秩序維持のために行われる、第三者による学びの構造化・組織化」という思想に対する強烈なアンチテーゼとして用いられたと解釈することの方が、妥当であると考えられます。
すなわち、ワークショップとは「アマチュアによってつくられ、人々が自発的に参加した、インフォーマルで、オルタナティブな学びを包括するムーヴメントであり、大風呂敷概念である」ということです。端的にいえば、そこには「メインストリームじゃない感」「すこし怪しい感」がつきまとうということですね。
また、次に「研修」という言葉はどうでしょうか。こちらも完全なるアンブレラワードです。
経営学的に述べるのであれば、研修とは人材育成の下位概念です。それはOJTと対照づけて用いられます。すなわち、「仕事場から離れて行われる学習」をすべて研修というワードで包括しているに過ぎません。えらい、ざっくりやなー。
そして、大切なことは、こちらは、「フォーマルな機会であり、経営という観点から、他者の学習を構造化する」という感覚が漂っているということです。その手法やコンテンツは自由です。双方向性ばりばりのものがあったり、創造が行われる場合があったりします。
すなわち、ここまで考えたうえで導き出される結論は、ひとつです。
「研修とワークショップは何が違うのか?」
という問い自体が、考えるに値する問いなのかを逆に問いたくたる問いであること。そして、そこに手法やアウトプットの点から差異を導き出そうとすること自体が、ナンセンスだということです。
以上でした。。。
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今日は、研修とワークショップについて書きました。
最近は不思議なことに、「アンチフォーマル性」をもっているワークショップが、「フォーマルなもの(すなわち、組織が公式に認める研修)に導入されていく」という事態が、進んでいます。
ネーミングなので、どうでもいいっちゃいいんですが、つまり
ワークショップ型研修
とか
ワークショップスタイルの研修
とかいう言葉が生まれている、ということですね。
アンブレラワード同志の結合なので、もう、何がどうなってもいいのですが、その思想的背景に思いをはせるとき、それにしても、一瞬、目眩がクラクラしてしまうことを正直に吐露いたします。リンダ困っちゃう!
そして人生は続くのさ
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