2013.1.24 09:16/ Jun
確か、クリストフ・シャルルの「大学の歴史」だったと思うのですが、
歴史的に見て、
「大学は、一度として、安定した時期はなかった」
「大学は、常に社会の中で揺れ続けていた」
という一節があったように思います(うろ覚えですみません・・・もしかしたら、違ったかもしれません)。
時に16世紀。大学は、専門的研究者のギルドととしてはじまり、時の権力やマネーの力に翻弄されつつ、時に力を失い、時に力を得て、これまで、何とか続いてきました。
歴史という長いスパンから大学を見つめるとき、それは、いつも社会の変化の中にあり、社会と様々な関係を切り結びつつ、これまで生き延びてきたことがわかります。
そして、社会が変わり、大学が揺れ続けるのなら、そこに集う「研究者」や「研究のあり方」「研究の方法論」「研究と現場の距離のあり方」も、揺れ続ける可能性が高いことになります。
研究者の変化を、数百年というロングスパンでレビューすることは、僕の能力を超えていますが、このわずか半世紀を切り取ってみても、それは、社会のあり方の中で、ずいぶん変化してきたような気がします。
下記は、あくまで僕の研究分野に限った話ですが、「研究者のあり方」ないしは「研究のあり方」も、この数十年で大きく変化を遂げてきました。「変わること」がよいことなのか、よくないことなのかという「価値判断」は、敢えて、ここではしません。しかし、少なくとも僕の研究分野の場合、それは、常に「変化」の中にあったといえます。
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1970年代をひと言で述べるならば、「現場はいつもKKD(カンと経験と度胸)で動く」です。根本的には、それを「アンチテーゼ」としたような位置づけで、研究が行われることが多かったように感じます。
現場は、いつも不確実性が高い。またカンと度胸は信頼性や再現性が低い。よって、そのような「フワフワ」したものに依存するのではなく、研究室という統制された環境で、実験や調査を行い、法則をつくって、現場に適応すればいいじゃないか。いわゆる「法則定位学」が、この時代の特徴でした。
当然、現場と研究の間には、深い溝があります。それは、当時、よく用いられたという、このワンセンテンスに代表されます。
研究室で法則をつくり、現場に「落とす」
この「落とす」という言葉に、研究の特権性を感じざるをえません。
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1980年代 – 1990年代くらいになってくると、大学にはポストモダンの風が吹き荒れます。
前時代の機能主義的、かつ、実証主義的な学問のあり方や、特権的な現場と研究の関係が反省され、質的な方法論が研究の現場に急速に導入されはじめました。現場と研究の非対称な関係もずいぶん見なされてきました。
現場で起こっている「現象」を定性的に把握して、それをエスノグラフィーとして編むこと。市井を生きる人々によって、そのつど、そのつどつくりだされるミクロな現象をおうこと。そういう志向性をもった研究がとても流行しました。
特に、この時代に吹き荒れた「質的な方法論」に対する「熱狂振り」はすごいものでした。この時代に「僕は量でいきます」とは怖くていえないような雰囲気もあったような記憶があります。また、「質量論争」みたいなものも随分ありました。
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1990年代後半にはいってくると、「質」に対する「熱狂」は少しやみました。むしろ、定量的か定性的かというダイコトミーで物事を考える思考が、止んでくるように思います。
しかし、この時代には、研究者自らが研究対象に関与していくこと、さらには自分で場やツールをつくり、社会的実験を行うことが、あたりまえのようになされるようになりはじめました。現場の人々とアクションリサーチをするようなことも行われるようになってきました。
研究が大規模化するにしたがって、共同研究が常態化しはじめました。同じ領域の中で興味関心をもつ研究者同士がつながり、共同で問題にあたることが多くなってきました。
また、この時代、研究の現場に「ファンディング」「ファンドレイジング」という言葉が導入されはじめたな、という印象ももっています。
研究が、パブリックセクターによってのみ支えられる時代は終わり、民の力と共振しはじめたように思います。
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さらに、2000年代にはいってくると、デザインするべきものがさらに多様化し、さらには介入するべきものが変化してきます。ファンドレイジングは常態化し、共同研究というかたちも常態化しました。本当に多種多様な専門性をもった人々が、研究に関与してくるようになりました。
一方、研究の介入対象、デザイン対象も変化していきます。この時代に問題になったことのひとつは、「実践の持続可能性が担保」です。サスティナビリティのある実践の変化を導くために、いったい、何をわたしたちはデザインしなくてはならないのか。
コミュニティ、組織、制度、政策、社会関係・・・ありとあらゆるものが、デザインや介入のする対象としてかかげられるようになってきたのではないか、と思います。
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そして、2010年代。
この時代はどういう時代なのかを、今まさにその渦中にいる僕は、単刀直入にひと言で述べることはできません。
ただし、時には、スパンを長くとらえ、自分をとらえることも大切なのかな、と最近、日々雑事に忙殺されながら、考えています。
自分たちがどういう時代を生き、何を研究し、それにはどういう特徴があるのかを認識しておくことも、大切だよな、と、とみに思いはじめています。そういうものを、僕は、どうやら雑事にかまけ、見失いがちなようです。
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僕は、何人かの同世代の研究者たちと、半年に一度、オフサイトミーティングをさせてもらっています。そこは、自分たちの研究やキャリアを半年に一度、振り返る、よい機会になっているような気がします。
おりしも、次回の会が、そろそろ近づいてきました。
次回には、「今とはどういう時代なのか」「僕らは、どんな時代を生きているのか」「僕らは、どんな特徴のある研究をしているのか」「この先、10年をどのように過ごせばいいのか」ということを、それぞれの研究者の目から見つめてみると面白いのかな、なんて思っています。
動くために、立ち止まる
そして人生は続く
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