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2013.1.18 17:31/ Jun

「大人のための教育技術」を考える : 大人たちが集えば、うにょうにょと蠢く「権力」

「大人のための教育技術」というものは、「子どものための教育技術」とは異なり「独特の配慮」を必要とする場合もあります。ここでいう「大人のための教育技術」とは「学習者が大人である場合に、教授者側に必要となる教育技術」のことをいいます。
 さらに議論を前にすすめるならば、一口に「大人のための教育技術」といっても、「これまでも、これからも、同じ職場で働く大人たちのための教育技術」と「いつも所属している組織から離れて、自由意思で、一時的に集まった大人たちに対する教育技術」は、また、趣を異にします。
 それでは、それらによって、いったい「何」が大きく違うのか。
 最も大きな違いのひとつは「教育・学びの場」に駆動する「権力」です。特に「これまでも、これからも、同じ職場で働く大人たちのための教育技術」の場合は、もっともハードルが高くなる傾向があります。
 簡単にいうと、
 あなたの会社の職場のひとたちが、メンバーであるような学びの場のハンドリングは、ひとつ間違うと、”しょっぱい話”になりがちだ
 ということです(笑)。
 要するに、学習者のポジションや、それまでの業務経験によって、その場でいやがおうでも駆動してしまう「権力」に対して、ファシリテータ側は配慮やハンドリングすることが必要になります。場合によっては、その「権力の影響」を最小限にとどめたり、マネージするための、ほとんど「寝技」といってもいいような(!?)教育技術が必要になります。
 もちろん、子どもの場合でも、程度の差こそはあれ、権力は存在します。1980年代の学習研究が明らかにしたように、「教室の中に駆動する権力を無化することは、何人たりともできません」。しかし、経験上、それが大人ほど、ビビッドに、シリアスに、かつ、香ばしく(!?)発動することは多くの場合はありません。
 仕事柄といいましょうか、研究柄といいましょうか、僕は、おそらく人より多くの研修場面を見たり、経験していると思います。いくつかの「大人の学びの場」において「権力」が「うにょうにょ」と蠢く場面を、これまでたくさん見てきました。
 まるで、「風の谷のナウシカ」の「王蟲」のように・・・。
 ラン、ランララ、ランランラン
 ラン、ランラララン(笑)
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  ▼
 たとえば、これは研究室の大学院生・舘野泰一さんと話していたことですが、今、仮に研修やセミナーで、複数人の大人たち「ジグソーメソッド」によるグループ学習をしたとしますね。
 ジグソーメソッドとは、ひと言でいえば「ジグソーパズルをするがごとく、学習者一人一人が、教え手によって分割された個別の内容を学び、それらを持ち寄り、統合し、全体像をつくることを通して学ぶ学習方法」です。
 ていうか、わかんないよね、これじゃ。要するに、グループ全員で学ぶことは、ジグソーパズル全体。で、各人がピースをひとりずつ個別に学んで、みんなで話し合って、ジグゾーパズルをつくりながら、学ぶイメージです。
「ジグソーメソッド」においては、まず講師が、グループ全体で学びたい内容を分割します。次に、学習者たちが、それぞれ細分化されたある学習内容を、個別に学習します。その後、自分が学習した内容を、他のメンバーに説明することを行います。この手法においては、このように各学習者によってなされた説明を組み合わせたりしながら、全体像を組み立て、相互に学習を深めます。
 ジグソーメソッドは、もともと社会心理学のアロンソンが提唱し、初等・中等教育の現場で様々に広く活用されている手法です。が、もし、これをそのまま「大人の学習者」に活用したとしたら、どうなるでしょうか。この話を舘野さんがしていて、面白かった。
 特に、「大人」の中でも、もっともハードルの高いと思われる「これまでも、これからも、同じ職場で働く大人たち」に適応したとしたら、どういうことがおこるでしょうか。
  ▼
 「これまでも、これからも、同じ職場で働く大人たち」に「ジグソーメソッド」を適応しても、もちろん、うまくいく場合も多々あります。
 しかし、先ほどの「学習者メンバー間に作動する権力」の問題が深刻であった場合、全く同じインストラクションを行った場合でも、うまくいかない場合も生まれ得ます。
 本来のジグソーメソッドにおいては、個別の学習内容を学んだ学習者たちが、フラットな関係(擬似的民主性)の中で学ぶことが求められるのですが、実際の現場では、そうはなかなかうまくいきません。
 ポジション、肩書きによって、権力がうにょうにょと蠢きだし(発動し)、この学習手法の前提である「擬似的民主制」が崩されてしまう場合も少なくないことが予想されます。
 つまり、エライ人が永遠に喋り続ける事態、権力をもつ人が場の活動を独占してしまう事態が、容易に想像できます。
 具体的イメージはこちら
 皆さん、今日はフラットにしゃべり、アイデアをだしあいましょうね」という場において、あるオッサンが、永遠にしゃべくりまくり、仕切っている様子
 とか
 すごく素晴らしい見識をもっている若手の意見は、いっこうに採用されず、ペンペン草もはえないようなオッサンのしょーもないアイデアが、なぜか、みんなに拍手喝采される状態
 でしょうかね(笑)。
 ブラボー。
 また、こんなことも起こるかもしれません。
 一般に、大人は長い時間を生き、様々な経験をつんでいますので、これから学ぶべき全体像、他人の担当する学習内容について、すでによく知っている場合がでてきます。
 そうすると、この学習手法の前提 – すなわち、みんなが知らないことを、分割して学び、その組み合わせのあり方を探究しながら、学ぶ ということ- 揺さぶられる事態が容易に想像できます。場合によっては、各自がそれぞれ学習内容とは関係のない「経験を語り合う会」になってしまいがちなことも、また容易に予想できることです。
 上記は「学習者-学習者間の権力」でしたが、さらにいうならば、「講師・ファシリテータと学習者」のあいだにおいて発動する「権力の駆け引き」についても、見逃すわけにはいきません。
 講師・ファシリテータが学習者を動かそうとするとき、学習者側は、常に、その講師・ファシリテータが、どのような経験や業績をもち、どのような権力を組織から付与され、代弁されているのか、を常にモニタリングしているものです。
「おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」(フリードリヒ・ニーチェ)
 企業内教育において、講師・ファシリテータは、公教育のように、国家から承認された公的な免許・資格をもつわけではありません。また講師の善し悪しは、単一の統一基準があるわけではなく、学習者と教授者が相対したその場の状況、さらには学習者のこれまでの業務経験、被教育経験にてらして、そのつどそのつど、推し量られます。
 教室において、そのつどそのつど行われる、学習者による「値踏み」によって、講師の発するメッセージが、学習者にどのように「刺さるか」が決まるのです。
 
 このように、さしずめ、「大人が集う教室」とは、「権力が蠢くアリーナ」のようにも見えてきます。「大人の学ぶ場を取り仕切る教育技術・学習手法」においては、これに関する対処が大切であることがわかります。
 ▼
 
 さて、今日は「大人のための教育技術」と「学びの場に作動する権力」についてお話ししてきました。
 このように、大人の学びの場には、子どもとは比較にならないほどの権力が作動する可能性があるのですが、一方、これまで多くの学習手法・教育手法研究においては、その場に駆動する「権力」の問題を真正面から扱ったものは、管見に関する限り、ありません。
 教授設計理論においても、その理論において、権力に関する目配りや、それに対するディレンママネージをふくみこんだものは、少ないのではないか、と想像します。もちろん、この問題に関する、若干の言及はされています。しかし、それを真正面から問題関心として扱ったものは、なかなかお目にはかかれません。
 それらにおいては、学習者のもつ「権力性」の問題は「各種の介入によって無化されていること」が前提になっているか、ないしは、「無視できるもの」とされていた傾向があるのではないか、と僕は、にらんでいます。
 よって、教授設計理論を成人学習の領域にインポートし、それに忠実に何かを設計したとしても、大人の場合、うまくいかない。うまくいくはずなのに、うまくいかない、といった事態が生まれていたのではないか、と思うのです。
「働く大人」の現状、「働く大人の集う教室」に即して、それにどっぷりと根をおろし、そこで作動する権力の問題に対処できる学習手法・教育手法研究が、求められているのではないか、と思います。
  ▼
 というわけで、今、僕は「マネジャー育成研究」「海外赴任研究」「大学生 – 企業研究」に続く、第三番目のひとりプロジェクトを、密かに、密かにひそかに進めています(第1から第3の研究は2013年-2014年には成果がまとめられるのではないかと思います)。
 
 名付けて「大人のための教育技術」プロジェクト。
 それは、「これまでも、これからも、同じ職場で働く大人たちのための教育技術のあり方」を探究するプロジェクトです。
 このプロジェクトで扱うデータには、「これまでも、これからも、同じ職場で働く大人たち」の集う教室で取得されたものを限定的に用います。そこで、様々な教授・ファシリテーションを行う人々の語りや行動をデータに用います。
 そのような作業を通して、「大人のための学びの場づくり」のための、新たな手法が生まれてくるのではないか、と勝手きままに夢想しています。
 そして人生は続く

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