2012.12.18 08:38/ Jun
「学ぶ」とは、いつか「別れること」を前提に「他者と出会う」ことであり、「教える」とは、その時がきたら、「綺麗さっぱり送り出すこと」です。
「学び」と「別離」というテーマは、あまり論じられないマニアックなテーマではありますけれども、冬になり、寒い季節を迎えると、そのようなことを思います。
大学には、毎年、多くの学生が集い、そして、そこを巣立っていきます。
毎年、学生を社会におくりだし、「またひとつ年をとったな」と窓の遠くを見る。「めそめそ帰ってくるんじゃない」と学生の背中につぶやく。これが、僕の「歳時記」となっています。
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このように「学び」と「別離」は不可分のテーマであるものの、一方で、この「別離のプロセス」が、なかなかうまくいかないパターンというのもあります。
一番よくあるケースというのは、「送り出し側が、綺麗さっぱり、学習者を送り出そうとしない」という問題です。これは、一般の会社組織にも十分あることなのではないでしょうか。
例えば、師やメンターとなっている人がいて、それに支持している学習者がいるとしましょう(会社の場合だと、上司・メンターと部下の関係になりますね)。それまでたくさんの支援を受け、何とかかんとか、成果をだせるようになり、能力を向上させた学習者は、今や、「巣立ち」のときを待っているとします。
しかし、メンターになった側からみた場合、ここで「巣立たれて」は困る。教育投資を行い、ようやく一人前にして、自分を助けてくれるくらいになったのに、ここで逃げられては、今まで行ってきた投資を回収できない。
要するに、教育投資を行った以上に、労働力を回収するまでは、「学習者を離さないこと」が容易に起こりうるのです。
キャシー・クラムのメンタリング研究では、メンターリングの最終過程には、メンターとメンティ間に緊張感の走る「別離のプロセス」が存在するといいます。
この時期に、うまく「別離」を行えば(上手に別れられれば!)、メンターとメンティ(学習者)は、また新たな関係を築くことができる。
逆に、この「別離」に失敗すると、メンティが本当の意味で、一人前になることはできないか、またメンターとメンティの関係は破綻する。
男と女の関係ではないですが – 小生、そういう方面は苦手なので、よくわかりませんけれども(笑) – 「綺麗さっぱり別れること」は、やっぱり大切なことなのかもしれません。ま、ぐずぐずしなさんな。経験上、ロクなことがないから(笑)
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もうひとつのケースは、「学習者側の問題」です。つまり、メンターの方は「送りだそう」としていても、いつまでたっても「学習者の側が離れようとしない」。
いつまでもグズグズしていて、師の庇護のもとに、師の課題を引き受けることで、師のハイアラーキカルな構造の中で、生きていこうとする。
僕はよく思うのですけれども、「巣立ちを迎えた学習者」は、一時的に師やメンターを「上書き保存」するくらいの気概をもって、彼らといったん離れた方がいいのではないか、と思います。
それまで一緒にものを考え、一緒に行動してきた師やメンターを、一度は「相対化」して、同じ「土俵」にたってみる。そのあとには、きっと、実社会にでて、たくさんの苦難を経験するでしょう。なぜなら、そこにはメンターの庇護はないから。
しかし、そういう「別離」と「苦難」のプロセスを体験したうえで、しばらくすると、学習者とメンターの間には、新たな対等な関係が生まれるような気がするのです。逆に、そういう「別離」と「苦難」がなければ、学習者とメンターの間には、ぐずぐずした人間関係が残る。
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以上、「師・メンターの側」からと「学習者の側」からの2つの方面から、「学びと別離」の問題を述べてきました。この問題は、実際の現場では、二つに分かちがたく存在しています。
つまり、「教育投資を回収したいメンター・師の思惑」と「師の庇護のもとで安穏としていたい学習者の思惑」は「共犯関係」を結んでしまいます。
そして、グズグズと時間が過ぎる。師・メンターは「都合のよい労働力」を手に入れる。学習者は、いつまでたっても、師の庇護のもとで、「ルーティンな仕事」をこなす。それは両者にとって、悪い気持ちはしない。しかし、確実に言えることは、「学習者の能力は伸びない可能性が高い」。
かくして、さらに学習者は、師・メンターとは別れがたくなる。最後には、愛憎極まる、そう簡単には解除できないドロドロの人間関係が生まれるのです。
「愛憎」か、、、僕は、そういう方面は得意じゃないので、これ以上は、述べませんけれども(笑)、やっぱりね、「きちんと別れること」ですよ。ぐずぐずしなさんな。
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「別れのあと」「巣立ちのあと」、学習者は実社会に出て、一時的に苦労をします。その苦労は、師・メンターの行ってきた支援が質量ともによいものであればあるほど、大きくなるはずです。
なぜなら、自分のついていた師・メンターが「よい支援」を行っていればいるほど、「師・メンターの支援のある世界」と「実社会」のギャップが増すからです。それはもしかすると、「リアリティショック」「カルチャーショック」とも形容できるかもしれません。
社会に出るとは、「道理のある世界」から「不条理な世界」への移行なのです。このトランジションには、時に「痛み」が生じる場合もある。
しかしね、出会ったときから、師・メンターと学習者はいつかは「別れる運命」にあるのです。学習者は、いつまでも「学習者」ではいられません。いつかは社会にでて「分離」と「ショック」を経験しなくてはならない。そして、何かを成し遂げなくてはならない。
ま、ぐずぐずしないことです。
たとえ別れたとしても、自分の納得のいく仕事をしていれば、また出会えるはずだから。それに、「別れ」の先には、あなたの活躍を待っている「新たな世界」があるはずだから。
そして人生は続く
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