2012.12.17 09:20/ Jun
週末は、経営学習研究所(MALL)・板谷理事のラボ「働く女性ラボ」が主催する、Lカレッジ第一回「ロールモデルってそばにいる?」に参加させて頂きました。
板谷さんの主催する「Lカレッジ」は、「働く女性が参加なさる学びの場」です。
「仕事で輝く自分を実現するための、情報収集、意見交換、人脈づくりの場」であり、ワインを片手におしゃれに、緩やかに学ぶというスタイルを、これまで実践なさってきました。
当日スタッフとして活躍なさっていた牧村理事が、当日の報告をなさっているので、詳細は、下記の記事をご覧下さい。
経営学習研究所(MALL)働く女性ラボ「ロールモデルってそばにいる?」終了!
http://maholab.net/?p=382
先日のLカレッジは『働く女性の24時間』(日本経済新聞社刊)の著者、野村浩子さんにゲストにお越しいただきました。
野村さんは、かつてWOMAN OF THE YEARなどを立ち上げ、2003年からは「日経WOMAN」編集長をつとめられておられた方です。現在は、日経BP社で日経マネーの副編集長としてお仕事をなさっています。
野村さんには、多くの女性たちの取材を通して得られた知見や、ご自身のご経験について、「ロールモデル」という切り口からお話しいただきました。
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野村さんのお話しは、僕としても、非常に首肯できる部分が多く、とても興味深く聞かせて頂きました。「キャリア論」や「ジェンダー論」に関しましては、専門ではないので、責任をもったことは言えないのですが、考えさせられることが多かったです。ありがとうございました。
野村さんは、「ロールモデルを過剰に求めすぎる傾向」を「ロールモデル症候群」とよび、懸念を示される一方で、「様々な人々から、こうなりたいな、と思える部分を探してくる」、いわゆる「モザイク型ロールモデル」を提唱なさっておりました。講演では、野村さんが自らロールモデルとしてきた複数人の方々をご紹介なさっていました。
「モザイク型ロールモデル」とは、つまり、「Aさんのこういうところ」、「Bさんのこういうところ」、と都合よくピックアップし、自分のめざす人物像を「編集」することが大切であるということですね。「編集」というところが、野村さんらしいネーミングであるように感じます。
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野村さんの話を聞きながら、個人的に、自分の経験にてらして、勝手気ままに、ロールモデルについていろいろと考えていました。
世の中でよく聞くロールモデル論、いわゆる「古典的ロールモデル論」とは、
「自分の社内に、職場内に、ロールモデルとなる人をひとり探して、そういうひとりが見つかったときに、その人に近づこうとすることで、自分のキャリアをひらくことができる」
という論調のように思います。こういう議論を、確かに、よく聞きます。
しかし、この論調は裏返すと、
「自分の社内、職場内に、ロールモデルとなる人はいないので、自分は開花できないのだ」
という論理を生み出します。それが過剰になる場合には、いわゆる「他責(自分以外の他者に責任を転嫁する態度)」の態度が強化されていきます。つまり、「わたしが開花できないのは、自分の周りにロクな人物がいないからだ」ということになるということです。
そして、永遠に「いつか出会えるはずのロールモデル」を探すことになります。まるで、「青い鳥」を探すかのように。
(ここには皮肉があります。本当は青い鳥は見つかってしまっては、自分が変わらなくてはならないので、困るのです。そういう意味では、皮肉なことに、他責のマインドでロールモデルを探し続けることに固執してしまう方々は、青い鳥を探しつつも、意識的であれ、無意識的であれ、それを見逃す行動、つまりは矛盾した行動をとるのではないかと思います)
個人的には、この「古典的ロールモデル論」!?に、下記の3点から違和感を感じます(野村さんも疑義を提案なさっていましたね)。僕は、キャリア論やロールモデル論?は専門ではありませんが、以下は自分の経験からてらして考えたことです。
1.「ロールモデルは社内にいなければならない」ということに関する疑義
ロールモデルは社内であっても、社外であってもよいのではないでしょうか。そりゃ、社内に身近にいるのなら、それにこしたことはないのかもしれません。でも、むしろ、社内でロールモデルがいないことは、特に不幸なことではないような気もします。組織の外部にめざすべきものがあることは、それほど変なことではないでしょう。
2.「ロールモデルは「ひとり」でなければならない」ということに関する疑義
「理想とするひとりの人間」に近づくことが、キャリアをひらくことなるのでしょうか。むしろ、「単数のロールモデル」ではなく、「複数のロールモデル”ズ”」を対象に、自分のなりたい姿を、自らつくりあげ、実践していくというイメージの方が、僕には肌に合います。
3.古典的ロールモデル論は、「ロールモデルに近づくこと」だけが強調されているような気がします。
むしろ、ロールモデルは「そこから離れるタイミングをいかにもつか:分離プロセス」が重要なのではないでしょうか。
といいますのは、どんなに、憧れようとも、人は「他者」にはなりえません。また自己イメージは、めざすべき他者イメージとは重なりません。それは、あなたと他者が「違う人間」だからです。
キャリアの初期段階において、目標とする複数の人々の仕事の姿を参照することはよいかもしれませんが、いつかは、そのイメージから「分離」し、自分を形成していかなければならないのではないだろうか、と思います。
野村さんのお話を伺いながら、その主張に首肯しつつ、僕はこんなことを考えていました。
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個人的にロールモデルということに思いをはせると、若い頃の、いろいろな思いがよみがえります。あの頃は – 今も七転八倒ですが – それなりに苦闘していたな、と思うのです。
といいますのは、研究者というのは、仕事柄かもしれませんが、「他者と同じ事をやっていては存在意義がありません」。その意味では「ロールモデル」に自分が重なってしまってはダメなのです。少なくとも僕の専門にするような分野では。
自分の駆け出しの頃を考えてみますと、先達研究者、いわゆるロールモデルズに憧れつつも、絶対に、それらの人々とは「同じようにはならない」ように、僕は生きてきました。
重ならないように、新たなかたちをつくることを、常に意識してきたような気がします。
そういう意味では、僕のロールモデル”ズ”は、「自らが近づきたい対象」というよりも、「自分が重ならないように意識する方々」であったように感じます。そういう他者を、自分なりにひそかに持てたことは、自分としては、幸せなことであったと感じています。
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最後になりますが、今回のイベントを共催いただいたコクヨ株式会社WORKSIGHT LAB.の金森さん、山下さん、ありがとうございました。そして野村さん、板谷さん、牧村さん、田中さん、お疲れ様でした。
そして人生は続く
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