2012.12.6 10:19/ Jun
「学び」にロマンティシズムを感じてしまう方々がよく犯してしまうある種の「錯誤」が、「学習活動に対する学習者の参加の程度」と「学びの場をオーガナイズする側の意図の有無」をトレードオフで考えてしまうことです。つまりそれらを整理して考えず「ごった煮」にしてしまうことです。
ここで「学びの場をオーガナイズする側」とは、場合によっては、研修講師でもよいですし、ファシリテータでもかまいません。いずれにせよ、「学びの場」をつくりだす、いわゆる「サプライサイド(提供側)にいる方とお考えください。
先ほどの「錯誤」をもっと平たくいうと、つまり、こういうことです。
学習者が、自らの興味関心に応じて、積極的に活動に参加したり、アクティブに議論に参加している場であるならば、すなわち、そうした場には「学びをオーガナイズする側」の「意図は反映されていない。
と考えてしまうということですね。
「学習者が、自らの興味関心に応じて、学ぶことができる」「学習者が、積極的に活動に参加したり、アクティブに議論に参加できる」というのは、講師やファシリテータが「意図的でないから」こそ可能になる。
つまりは、
教え手の「意図がない」ところでこそ、学び手は十全に自ら学ぶことができる
という「思い込み」とも言えるかもしれません。
さらにラディカルな場合は、「意図がある学びの場」こそは、もっとも忌避されるべきものであり、「意図がないこと」はAnything OKである。あるいは「サプライサイドの意図がない学びの場」は、「サプライサイド側の意図がこめられた学びの場」よりも価値の高いものである、と位置づけられることもゼロではありません。
場合によっては、
学びのあり方は、学習者たちの自己決定にすべてまかせればよい
学びをどうするかは、学習者たち自らが、責任をもって決めればよい
というかたちで、「第三者の意図的な介入をすべて放棄するパターン」もゼロではありません。
どうにも、近年、人材育成の言説空間においても、こうした言論傾向が、過剰に強くなっているような気がして、僕は、とても気になっています。
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学びの場は多種多様。様々なものがありますので、ここで上記に僕が述べた「錯誤」が、本当に「錯誤」であるかどうかは状況によります。それはケースバイケースです。
しかし、一般的に考えて、
「どんなに学習者が目が輝いていても」
「どんなに彼らが自らの興味関心に基づいて学んでいても」
「学習者がどんなにアクティブであったとしても」
そうした場が、「自然発生的かつ創発的的に構築された場」で、かつ、そこには「個人の、完全なる自発的意志によって、人々が集っている」状況で「ない」限りにおいて、そこには「学びをオーガナイズする側の”意図”」が駆動します。
このことを僕に教えてくれたのは、ちょっと古い文献になりますけれども、社会学者のピーター・ウッズです。たしか学部3年の頃だと思いましたが、ひょんなことから、彼の著作を読んで、衝撃を受けたのですね。僕自身が、もっとも「学びにロマンティシズムを感じていた学生」の一人でしたから、その衝撃は、とてつもないものでした。
ウッズは、「実践が進歩主義的なものであるか、保守的なものであるかというダイコトミーは、実践現場に駆動する意図の問題を隠蔽する」といってのけました。
「学びのサプライサイド側」の意図とは、ほとんどの場合、「常に」学びの現場に駆動しているというアタリマエのことを、彼は指摘したわけです。アタリマエのことなのですが、ともすれば見えなくなってしまうことです。
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今日の話をまとめます。
要するに何が言いたいかというと、「学びのオーガナイザー側の意図がある / 意図がない」という問題は「あまり問題ではない」ということです。もちろん、その「意図」の強さや、質などの「あり方」は問われる必要がある。しかし、いずれにしても、程度の差こそはあれ、どんな学びの場においても「意図」は介在する。
むしろ「意図がないこと」を至上主義的に「よいもの」とみなし、「本来、必要な準備や介入を放棄してしまうことがよいことである」と感じてしまうことの方が、僕は望ましくない結果を生むことが多いような気がします。
特に「学び」に過剰なロマンティシズムを感じてしまう傾向が強い場合には、この問題は深刻になりますので、注意が必要です。
また、もうひとついいえることは、「学びの場のあり方は学習者のアウトプット」で問われればよいのであって、「意図がある空間 / 非意図的な空間」であるかはあまり問題ではない、ということです。
自らのもつ「意図」が「自信のもてるもの」であり、かつ、他者のまなざしに触れ、自らの内省を経ているものであれば、自信をもって「意図的」に振る舞えばよいと僕は思います。
何にも臆することなく、自信をもって、意図を持てばいいのです。
それを隠すこと、無化する必要なんて、これっぽっちもない。
もちろん、どう考えてもヤヴァイ意図、ペンペン草もはえない意図を自分勝手に振りかざされても困りますので、「意図」の内容とあり方は、定期的に問い直される機会をもつことが必要です。
しかし、一般に起こりえる懸念は、下記のようなことの方がが、ずっと、多いような気がします。
「意図がないこと」を夢想して、必要な準備をしないこと
「意図がないこと」を夢想して、必要な介入をしないこと
「意図がないこと」を夢想して、学習者を投げ込んでしまうこと
これらの方が、運悪く重なりあってしまったとき – サプライサイドとしては、「これらを(学びの観点から)よかれと思ってやっている」だけに- よっぽど、望ましくない結果を生むような気がしています。ですので、とても注意が必要なのかもしれません。
そして人生は続く。
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