2012.11.15 15:48/ Jun
学びには「コスト」がかかります
そして
学びを提供することにも「コスト」がかかります
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「そんなことは、アタリマエダのクラッカーじゃ、ヴォケ」
とか
「このクソ忙しいのに、今さらジロー感漂ってること言ってんじゃねー」
というツッコミがくることは重々承知して、今日は、一寸、「学びとコスト」の問題について、ゆるく、ぬるく、ぷらぷらと考えてみましょう。そろそろ、お茶の時間にしましょ。
しょっぱなから、今日のブログの結論から申しますと、こういうことです。
「学ぶ側」においても
「学びを提供する側」においても
「学びに付随するコスト」は
意識にのぼりずらく、ときおり「度外視」される
▼
まず「学ぶ側」の方から。
たとえば、「学びとコスト」という問題に関して、「学び手」としてのわたしたちは、自分の長い長い「被教育経験」を振り返り、いつ頃から「自分の学び」に「お金がかかったなぁ」と感じたでしょうか。
この問いに対する答えは、もちろん、人によって違うでしょうが、少なくない人が「社会人以降くらいから、敢えて自分が学ぼうとするとき、お金がかかるよな」と意識するのではないでしょうか。子どもの頃には、「身銭を切って学ぶこと」はあまりないので、「学びとお金が結びつかないこと」は、やむなきことかもしれません。それが本人にとってよいことか、よくないことかは別にして。
特に、おそらく、人々のもつ信念のうち最も強固なのは「義務教育はお金がかからない」という思い込みです。
でも、アタリマエのことですが、それにもコストがかかっており、年間で10兆円ほどのお金がかかっています。
学校を建設し、教員の人件費を捻出し、教材・学習施設を維持する。将来の人材を育成し、社会秩序を維持する。これは、本当にコストがかかることなのです。でも、少なくない人は、それを「タダ:お金がかからないもの」だと思っている。
たとえば、「大学教育」にしても、そうです。
日本ですと、大学の授業料は「親がだす場合が多い」ので、「あまりお金がかかるよな」という感覚は薄いかもしれません。もちろん、この社会では「苦学」なさっている方がいらっしゃる(増加している)ことも、解決しなければならない問題になりつつありますが(学費が上がる一方、家計所得は低くなり、それでいて奨学金の伸びも限定的です)、一般には、まだまだ、その認識は低いのではないでしょうか。
もちろん、大学教育は義務教育ほど、「学び手」としてのわたしたちに「無料だよね感」はないですが、実は、日々、お金がかかっています。
たとえば、今から「単純計算の思考実験」をしてみましょう。
大学教育にもお金がかかってるよね、ということを敢えて認識するための、「あくまで簡便な思考実験」です。
たとえば、今、あなたが、国立大学に通っているとします。
学生は、本当に単純計算で、出願、入学からはじまり4年間授業料をすべてあわせて、だいたい245万円(244万円)の費用がかかります。
これも本当に単純計算ですが、卒業までの単位を120単位と考えた場合、1授業(2単位の取得)には40703円の費用がかかります。てことは、1授業は原則15講義ですので、一授業あたり2713円を支払っていることになります。
仮に、あなたが国立大学生だとして、仮に今日3講義あったけど、それをブッチした。すると、8140円を捨てたことになります。ディズニーランド1回分+ちょっと気のきいたランチくらいの費用でしょうか。ドブボトンです、はい、それまでよ。
これが私立大学になると、さらにヘビーな数字になります。
文部科学省で公開されている平成21年の数字を見ますと、入学・出願・平均授業料・施設整備費の4年間の合計は、おおよそ443万円。すると、卒業までの単位を120単位と考えた場合、1授業(2単位の取得)には73833円の費用がかかります。てことは、1授業は原則15講義ですので、一授業あたり4922円です。1日3授業をブッチぎれば、14766円をすてる計算です。デートでディズニーランドにいって、やっぱり(笑)、きのきいたランチを食べるくらいでしょうか。ドブボトンです、はい、さいならー。
くどいようですが、以上は、あくまで「思考実験」です。
「大学教育の家計負担」を「単位数」や「講義数」で除することに何の意味があるんだ、というツッコミは覚悟して、敢えて、やってみました。あと、「大学がディズニーランドと何、関係あんだ」というツッコミもうけるでしょうが、何も関係がありません。だから「思考実験」だってば。
でも、こうしてみると、結構、費用がかかってるな、と感じませんか。
一般に、わたしたちは、「学び手」として教室に座り、教師の話を聞くときには、あまり「コスト」のことは考えません。でも、ちょっと振り返ってみれば、学びにはちゃんと「コスト」がかかっている。でも、そのことをともすれば、わたしたちは、忘れてしまいがちです。
(ちなみに、これは、家計負担だけの数字です。実際には、国家GDPの3.5%程度が(先進国にしては少ないという批判が多々あります、高等教育全体に投資されています)さらに投入されています。なお、この投資は、国立大学だけではありません。私立大学は私学助成金というかたちで、国からの支援があります。そういう意味では、完全にプライベートセクターで運営されている大学は存在しません。大学とはそもそもパブリックなものなのです)
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次に「学びを提供する側」の問題。
学びを提供する側に、「学びとコスト」の問題が散見されるのは「革新的な学びの空間や学習機会」を作り上げる際です。これは、僕自身の研究領域がそれに近いので、この問題がハイライトされやすいのかもしれません。
要するに、
「革新的な学習空間をつくりました! えっ、それに、いくらかかるんだって? もしかして、コストのことを、わたくしめに聞いてるんですか? チチチ、これだからシロウトは困るんだよ。
いいんです、いいんですってば、「革新的な学び」なんだから! 確かに人手はこれからかかりますけれども、革新的だし、学びとか、教育に関することだから、これでいいのです。野暮なこと、ききなさんな」
というイメージです。
で、そこにかかる「コスト」のことを度外視してしまう。
加えて、この「コスト度外視」を、さらにさらに「後押し」する言説として機能するのが、
「ここは学習・教育を提供する場なのだから、人的リソースはみなでボランティアで何とかやりくりして、なんとか頑張りましょう」
という「ボランティアリズム」と「ガンバリズム」です。
この「ボランティアリズム」と「ガンバリズム」が、安定的に維持できている場合は問題は起こりません。
しかしね、オクサン、人間ってのはね、時がたてば、いろいろ変化もするし、移動もあるし、意識もかわるんです。
こうした変化は、人生、いろんな出来事が起こるんだから、ある意味、しょーがないことです。変化が生じれば、当初の志だって、ボランティアリズムだって、ガンバリズムだって、変わっていくのです。ともすれば、熱狂的に「革新的な学び」を支えていた人々が、ひとり、またひとりと消え去っていくのです。
ひと言でいいますと、
「ボランティリズム」と「ガンバリズム」は、最初がピーク。
いつかは「失われる運命」にある
のです。
ということは、「コストのことを度外視する」ということは、結局「サスティナビリティ(持続可能性)という問題を生み出す」ということです。だって、「ボランティアリズム」も「ガンバリズム」も駆動しない場所には、支え手がいなくなるんだから。
かくして、いつかは、革新的な学習機会・学習空間を支える人々がいなくなり、その場は消え果てます。
たとえば、このことにゆるく関連して、先日、こんな文献を読みました。
かつて、ある場所に「革新的な教育を行う実験学校」がつくられたことがあります。その教育のあり方は、当時、大変に注目され、今もなお、多くの学習関係者を魅了していますが、その「革新的な教育」を支えていたのは、生徒140名に対して23人の教師と、大学院生クラスの10人のアシスタントであったということです。生徒140名に対して、教育のサプライサイドが33名。てことは、単純計算で、生徒ひとりに対して4.2人の支援者がいたことを意味します。
ある意味、そもそも「ハイパーリッチな学習環境」ですね。「革新性」を支えていたものの正体のひとつは、ここにもあるような気がします。要するに、ものすごい人的リソース・コストをかけて、これが実現されていた。
結局、この実験学校はのちに「閉校」になってしまうのですけれども、「学びとコスト」のことを考えるうえで、なかなか示唆的です。
(誤解を避けるために断言しておきますが、僕は、場合によっては、時にリソースをかけてでも、革新的な教育実験を行うことが大切だと思っていますし、この実験学校を大変評価しています。しかし、一方で、コストの問題を考えるとき、ここでの試みをそのまま水平展開しようとするなら、最初から無理があることがわかります)
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「学ぶことにはコストがかかる」ということが、あまり人々の意識にのぼりずらい、あるいは、この問題を度外視してしまうのは、いくつか理由があるように感じます。例えば、下記のような要因は、容易に思いつくでしょう。
1.「学ぶこと」には「Invisible」である
「明確なかたち」がなく、「目に見えない」。また、それは時間とともにフローして、ストックすることができない。よって、コストまで意識がのぼらない。
2.「学んだ結果/効果」は長期的にあらわれ、評価しにくい
学んだことが短期的に何かの成果としてあらわれることもありますが、その結果は長期的にじわじわとでてくる場合が多い。こういうのを、「学習の遅効性」といいます。
3.教育や学習の世界に存在する「聖性」と「精神主義」の壁
教育や学習は「聖性(清らかで、崇高なもの)」と見なされており、その場で、お金やコストの問題を語ること自体がタブーとされてきた。お金やコストがかかっても、「ボランティアリズム」と「ガンバリズム」で何とかできると信じられてきた。
皆さんの近くにある「革新的な学習環境 / 革新的な学習機会」は、いかがですか?
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今日のお話は、「学びとコスト」に関して、ゆるく、まとまりのない話をしました。今日の話をひと言で要約すれば「学ぶことにはコストが生じる」けど、なかなか、それは、意識されたり、語られないよね」ということです。むしろ、それがタブー視されることもあるわね、ということです。
こういうことを、公の面前で、ブログで書くと、
「あいつは、お金にうるさい」
とすぐに言われることが予想されます(笑)。
でもいいんです。この問題を敢えて「ひた隠し」にして、様々な「素晴らしい学習環境」、「有用な人材」が「スポイル」されてきた事例を、僕は、これまで3万6000件くらい見てきました(笑)。また、本当に「お金にうるさい」ジイサンは、世の中に腐るほどいます。それと比べると、僕なんか、ブログ記事書いてるだけです、おこちゃまです。たいしたことがありません。
もちろん、先に述べましたように、学習は「一般的なプロダクト / 製品」とは「異なる特質」があります。それは「目に見えるものではなく、かつ、評価しにくく、遅効性がある」。
だから、学習を「プロダクト」と同等なものと見なし、「コスト!コスト!」「オラオラ、金、金」とギチギチに管理することには無理があります。そんなもの、はなから論理破綻しているに決まっている。
でも、だからといって、お金のこと、コストのことを、敢えて「全く見ないで」本当によいのでしょうか。「お金やコストのこと、おれ、知らんポーン」とケツをまくっていて、いいとは僕には思えません。
意識はするんだけど、過剰に縛られないあり方・・・
「学ぶこと」に関して、「コストの問題」とちょうどよいつきあい方ができないものかねぇ・・・と思います。
うーん、なかなか難しい問題ですね。
煮え切らない終わりで、すみません。
そして人生は続く。
—
■2012/11/14 Twitter
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