2012.11.5 14:32/ Jun
先日、大学院・中原ゼミで、「社会化」に関するレビュー論文を読みました(木村充君 担当)。
社会化(Socialization)には、いろいろな定義がありますが、ここでは「仕事に必要な”知識”や”スキル”を獲得し、仕事のメンバーと溶け込むこと」とお考えください。
一番わかりやすい例をあげれば、どこの組織でも4月春頃に実施される「新人研修」を思い浮かべていただければいいでしょう。
新人研修で行われるように、「仕事をしてもらうために必要なことを、きちんと教え、組織の人になってもらうこと」。これを、ここでは「社会化」と考えてください。
ゼミでは、Ashforthさん(この方は、組織社会化の研究者としてもっとも引用される方のひとりですね)という方のお書きになった最新のレビュー論文を読みました。
その文献曰く、
「従来の組織では、社会化に長期間の時間をかけることができたが、現代のように、組織が頻繁に再編されたり、雇用が流動化される時代にあっては、社会化そのものが短期間化・迅速化する」
とのことでした。
文献では、この「迅速化した社会化」のありようを、「Swift Socialization(素早い社会化)」という概念で把握していました。
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ここで少しこの「Swift」について考えてみましょう。
少し考えればわかることですが、いくら社会化に「Swiftであること(素早さ)」が求められるといっても、それを「教育方法としての工夫の範疇」で行うには「限度」があることが、まず容易に予想できます。
仮にたとえば、今まで5時間で教えていたことを、1時間に短縮することには、限度があるでしょう。5時間で教えていたものを1時間に短縮することは、教える範囲の限定か、ないしは、全般的な質的低下をもたらすことが容易に想像できます。どんなものでも一発でしとめる「シルバービュレット」がないように、この世の中には「魔法の教え方」があるわけではありません。
ということは、「Swift Socializationが進行する」ということの果てには、いくつかの「可能性」が開かれます。ただし、ここでいう「可能性」とは、常にポジティブではないことに注意してください。
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最も予想される、ひとつの「あまり好ましくない方向にひらかれた可能性」は、「仕事を細分化し、SwiftにSocializationできる範囲内の仕事しか一人にはまかせない」ということです。
簡単にいうと「本当はひとりの人に5時間かけて教えるべき仕事を、5人分の仕事に細分化して、1人には1時間で教えるということです」です。これは – わたしは労働経済学は門外漢ですが – おそらく、「果てしない仕事の細分化」と「労働の非正規化」をもたらすような気がします。
そして、この種の仕事には、「仕事を通じた成長」は、あまり期待できませんので、「仕事をする個人」にとっても、「望ましい未来」が開けているようには、あまり感じません。
もうひとつの可能性は、
「本当は5時間かかる社会化の時間のうち、4時間をすでに組織”外”で学習をしている人を採用するということ」
ないしは
「5時間を1時間で学ぶことのできる、強靱な自主学習能力をもつ人を採用すること」
です。わかりやすくするために、敢えて極端に書いてますよ。「5時間のうち4時間を組織外で学ぶ」とか「5時間を1時間で学ぶ」というところの詳細については、つっこまないように。あくまで「思考実験」です。
ここで行われていることは、要するに「社会化」プロセスにおける教育上の工夫には限界があるので「採用・選択」を工夫する、ということですね。少し人事の感のある方なら、「Swift Socialization」に影響を与える最も大きな因子は「誰を採用するか」「誰を選択するか」であることに気づかれるでしょう。
もともと「筋の悪い人」を採用して、多大なコストをかけて社会化を行うよりは、「筋のいい人」を採用して、少ないコストで社会化を行った方がよいことになります。この意味では、社会化研究のスコープは、「採用・選択を科学する」ということにまで伸びていくものと思われます。
そして、ここからが「問題」です。「誰を採用するか」「誰を選択するか」という問題は、ひとつのアポリアをわたしたちに投げかけます。
ひと言でいうと、
「どうやって見抜けるの?」
要するに、
「どのような資質をもった個人なのかを、実現可能性の高いかたちで、どのように見分けることができるのか?」
という難問ですね。
つまりは「1時間分しか組織内で教える必要がない、8割がた組織外で完成された個人」と「強靱な自主学習能力をもつ個人」をどのように見分けることが可能か?ということですね。
これらは面接ではなかなか見抜くことは難しいことが容易に予想されますね。それでは、何によって、これを見抜くか・・・。
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「想像力」というか、メンバー全員の(?)ないしは小生の(!?)「妄想力」が著しい激しい「中原ゼミ」では、先日、このことが「熱い議論」になりました。下記、それをお話ししますが、「学問的な裏付けがある話」ではないので、あまり真に受けないように。
議論では、いろいろな意見がでましたが、もっとも可能性があると考えられたのは、「オンラインテストなどを実装し、学習履歴・進捗データを蓄積できる学習コースウェア」がひとつのありうる解だろうな、ということになりました。面接で「自己報告される言語データ」を用いるのではなく、日々の学習行動、テストへの反応などのデータを逐一記録して、そこから「Swift Socialization可能な個人を特定していく」ということです。
さらにいうと、これが「英語を言語で行われるオープンエデュケ−ション」という理念のもとで公開されているなら、なお、よろしい。
つまりこういうことです。
すなわち
「学習履歴・進捗データを蓄積できる学習コースウェアで、多くの人々が学び、テストを適宜受ける。そのときの学習データや評価データなどのビックデータ、もし逐一データベースに記録されていれば、上記の2点を判別する仕掛けをつくることができるかもしれない」
ということですね。「英語を言語としたオープンエデュケーションなら、なおよろしい」というのは、「多くの学習者がそこに集まりやすい」からですね。また、「理念の美しさ」をもって、あとで述べますが、ビジネスモデルを「一見、見えなくできる」からであり、からです(それがオープンエデュケーションの理念やあり方を歪める可能性があることは承知して、このことを述べています)。
しかし、こういう仕組みがあれば、もしかすると、こんなことが、できるかもしれない。
大人数の大規模な学習データ・学習データをもつ企業が、企業の人事や経営に、学習データを分析し、適切な個人を特定して、人を採用したい企業に、その情報を売り渡せば、Swift Socializationが可能になるかもしれない。もちろん、個人に許諾をとる必要があります。しかし、逆にいうと、許諾を得てしまえば、その情報をいかようにも加工して、リクルーティングに役立てることができる。
つまり、「外向き」には「誰もが平等に学ぶことのできるオープンエデュケーションの学習サイト」として位置づけ、マネタイズの部分は「BtoBにおけるリクルーティング支援」で実現する。
こうしたことが、今後、今よりも一般的になるのではないか、ということでした。オープンエデュケーションを専門になさっているゼミメンバーによると、すでに一部の企業では、こうしたビジネスモデルを既に採用していたり、これに目をつけているところもあるとのことでした。
もちろん、現段階では、こうしたサイトが「Work(きちんと動くかどうか)」はわかりません。上記は、何の検証も経ていない「夢物語(大ボラ)」です、
この実現のためには、様々なアルゴリズムを構築する必要がありますし、何よりも、ある程度のマスの母集団が常に、そのサイトで学び続けることが必要になります。
また、これによって、判別可能なのは、比較的狭い領域の知識で、体系化されているものだけです。すべての領域において、このモデルが有効である、というわけではないでしょう。
また、ここでご紹介した案は、内部労働市場(企業内部でジョブローテーションを通じて熟達していく)が優勢な日本企業ではピンとこないのかもしれません。しかし、専門性やスキルを、そのつど企業外部の労働市場で調達するという、いわゆる「外部労働市場」が発達した国においては、日本以上に、このアイデアは「ピン」とくることのように思います。「面接」などの方法以外に、アプリカントの能力を正確に把握・測定する手段があり、短期的であれ「労働力」を調達できればOKという国であれば、ここで述べることは、さらに説得力があるように感じます。
たとえば、「プログラミング」のような体系的知識が明示化され、さらには学習者のマスの母集団が確保されそうな領域などにおいては、こうした学習コースをつくり、多くの人々が学ぶ環境ができれば、上記のようなリクルーティング診断ができ(そう?)な気もしてきます(わたしはプログラミングも門外漢なので、妄想ベースですが・・・)。それは「短い時間の面接」よりも、さらに豊富な情報を採用担当者に提供できるのではないでしょうか。
「外向き」には「学習コース」として「みせて」、その実際は「大人数の学習者の、日々の学習データ・行動データの蓄積から、リクルーティングに必要なデータを種収支、分析する」というところがビジネス的には、ミソかな、と思います。
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しかし、もし仮に、さらに「妄想爆裂」で、こうしたことが可能になった場合、働く個人は、働く上で、また生きていく上で、どのような選択をすることができるでしょうか。
まず真っ先に思いつくのは、「この学習コースで学び、よい成績をあげ、よいパフォーマンスを提示し、就職する」という「正攻法ともいえる選択肢」です。しかし、この選択肢で生きていくためには、常に、激しいグローバルレベルの競争環境に自ら身をおく覚悟が必要である気もします。
自分の専門性が「体系化可能な学習コース」として学ぶことができ、「体系化した能力尺度」「明示的なスペック」として客観的に把握・測定可能であることは、そこには必然的に「競争」が生まれ、「市場」「価格競争」が生じる可能性がある、ということです。
もうひとつの生き方は、自分の専門性を「体系化可能な学習コース」として学べなく、かつ、「客観的には把握不可能なもの」として、付加価値をつけ、伸ばしていくやりかたです。
そうした領域は、大変「ニッチ」です。そこには「市場」が所与にあるわけではありません。ということは、最大の課題は、自分の顧客を見つけることです。必然的に、自分を自らマーケティングし、自ら「市場」をつくりだしていく努力が求められます。
上記2つの生き方は、「妄想爆裂の思考実験」ですが、確実にいえることは、「どちらにしても、このような時代にあっては、努力は必要である」ということです。「どこでどのような努力をするか」を考えていくかがポイントになるのかもしれません。
もちろん、どういう働き方をするか、どういう生き方をするかに「正解」はありません。
自分が、どう動くかが問われているだけです。
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今日は「Swift Socialization」の話題から、だいぶ、最後の方は話題を離れて、妄想力爆裂でお話しました。
僕の専門とする「経営学習論(Managamenet Learning)」という学際的研究領域は、たったひとつの概念から、今後、世界がどのように変わるか、そのような世界にあって、「個人としていかに生きるか?」「組織に個人がいかに付き合うか?」ということが、最後に話題になることが多いような気がします。
もちろん、いつもは、もっと概念レベルの話をしたり、テクニカルな研究方法論についても議論するのですが、議論をしている最中、ふとした瞬間に、「自分がどう生きるか」が話題になってくることが少なくありません。
この学問、「いまだ会社・組織で働いたことのない学部学生さんには一見とっつきにくいのですが、実は、「皆がこれから経験すること」自体がコンテンツなのです。だって、「企業に入って、ミドルとしての経験をつみ、様々な諸外国や諸法人に出向いたり、あるいは、経営者になる」。そういうプロセスそのものが研究対象なのですから。
ですので、学部などで授業をするときに、僕は「経営学習論は、みんなが将来ぶちあがる課題を考える学問なんだよ」と繰り返し述べております。手前味噌で大変恐縮ですが、「研究的問い」が、このように「自分に突き刺さってくる」という意味で、面白い研究領域だと思っています。
というわけで、今日は、Swift Socializationにからむ、ゼミの議論の話でした。
そして人生は続く。
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■2012/11/04 Twitter
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