2012.11.2 15:27/ Jun
人材マネジメント業界?、人材育成業界!?(そんな業界あるの?)でよく聞かれる、典型的、かつ、象徴的な「二分法(ダイコトミー)」は、これです。
人は「育てる」のか、「育つ」のか?
どっちなんだ、オラオラ?
たぶん、今までこの10年で、僕は「3万6000回」くらい、この問いを耳にしてきました(笑)。
居酒屋で、口角泡をとばして議論している様子も耳にしました。
コンセプトをねりあげる会議で、これが議題として持ち出されることもありました。自分の経験を、涙ながらに語る人にも出会いました。
人々を魅了してやまないのが、この「育てる or 育つ」のダイコトミーです。
大人なのに「育てる」のか、「大人は勝手に育つ」のか?
どっちなんだ、オラオラ?
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もちろん、圧倒的に人々がロマンティシズムを感じるのは、「後者」です。ひとことでいえば、前者は「ぬるく」感じる(笑)。特に「遠い昔に熟達し終わった人」は、こういう二者択一の問いを聞くと、”大人になって、甘えてんじゃねー”と、つい言いたくなる。
「大人なんだから、勝手に背中みて、育て、このタコ!」
「勝手に自分で育つのが、大人というものでしょう」
というわけです。
話をもとに戻して、この問いに対して、みなさんなら、どのように答えますか? 人は「育てる」のか、「育つ」のでしょうか?
僕の答えは、明確に決まっています。
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それは「この問い自体がナンセンス」です(笑)。
ズルイ!と言われるかもしれませんが、「提示された問い」に対して、つねに従順に答えをださなければならない法はありません。
これは「愚問」です。
「育てる」のか「育つ」のか、ふたつのうちのどちらかを答えるのではなくて、むしろ「これは愚問です」と答えなければならない。
むしろ、この「二分法的な問い」に思考を絡め取られ、人材開発や人材マネジメントの方向性やを「あれか、それか」の「極」にふってはいけない、と思います。
「星一徹のちゃぶ台がえし」?に近いかもしれませんが、これが僕の結論であり、近年の研究知見は、それを指示しています。
(うまく描けませんでした・・・しかも描いている最中に、TAKUZOに「パパ何かいてるの」と、たずねられ、答えに窮してしまいました。自己嫌悪です。なにやってんだろ、オレ・・・)
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例えば、近年、よく引用される「統合モデル」とよばれるモデルは、「組織側(外部)からの働きかけ」があってはじめて、社会化される人々の能動性が駆動すること」を明らかにしています。その上で「組織側からの働きかけ」と「人の能動的な学習」は交互作用(シナジーをうみだし)、学習を促進する、ということです。
つまり、こういうことです。
「育てる努力」があってこそ、「育つ」ということになりますね。
一方で、全く逆から、すなわち「育つ側」の研究知見も見てみましょう。
たとえば、経験からの学習パラダイムにのった実証研究では、「挑戦を発揮し、経験から学ぶこと(つまり、勝手に自分で育つこと)」を実現するには、当人がどのような職場にいるかに依存することを明らかにしています。
すなわち、「組織側に十分な人のつながりがあり、セーフティネットがある場合、さらには挑戦したとしても、自分の存在自体がおびやかされない風土が確立している場」において、人は、「自ら育つ」のです。
そして、「自らを育もうとする人」を目の前に、他者は「支援」を差しのばすことが明らかになっています、すなわち「自ら伸びようと思う人を、人は育てます」。
育成機会は、常に均等に配分されているわけではありません。リソースも限られている中で、人は自らの育成資源(時間的資源)を、伸びようとする個人に配分します。というか、「自ら伸びようと思わない人」に支援を差し出すほど、暇な人はいません。
要するに「育てる-育つ」は相補的な関係にあるのであって、いずれかを独立して考えることはできない、ということになります。
だから、「問い自体がナンセンス」「どちらか一方の結論を得ることを目的に考えるだけ時間の無駄」ということになります。
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以上、述べてきましたように、
人は「育てる」のか、「育つ」のか?
という問いは、問い自体がナンセンスだと僕は思います。
特に、最悪の場合、後者の「人は勝手に育つ」という言説は有害ですらあります。後者が思慮なく支持される事態は「若い人 / 新規参入者への教育投資を抑制し、酷使する職場」を生み出しかねません。
すなわち、最悪の場合、後者の「人は勝手に育つ」は「人材育成に対する投資を過度に抑制することを裏打ちする言説」として機能するのです。
すなわち、
「大人は勝手に育つものなんだから、投資はしなくてもいい。放置しててもできないのは、若い奴が悪い。たとえ、放置して、できなかった場合には、使い捨てにして、何が悪い」
といった具合です。
ブラックだね、、、全く笑えません。
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一般に「育つ」という言葉の背景には、実は、もうひとつ「隠された次元」があります。
それは、ビジネスパーソンが「育つ」という言葉を用いる場合、それは「(組織の戦略や目標に合致したかたちで)育つ」ということを前提にして議論していることです。
「育つ」といっても「個人で勝手気ままに、あっちゃこっちゃ、育たれては困るわけ」です。「個人で勝手気ままに、あっちゃこっちゃ、育つこと」でよいならば、話は簡単なのかもしれませんが、それじゃ、困る。「組織目標や戦略」に適合して、育ってくれなきゃ、困る。「本人の伸びのベクトル」が、「組織の求めるベクトル」と一致して、はじめて「育つ」といわれるわけですね。
もし、仮に、それを望むのであるならば・・・つまり「育つ」ということが、組織の目標や戦略に「合致した」方向で生起してほしいのであれば、還元すれば、人々の行動や認知を「組織望ましい方向」に秩序化したいのであれば、やはり「育てる努力(それを是正する努力)」を必要とする、ということになります。
個体とコミュニケーションをとり、組織の目標や戦略を伝え、理解させ、場合によって、フィードバックをかける必要があります。要するに、「育てる」必要があるということですね。そして、はじめて「育つ」。逆にいうと「組織の目標や戦略」も「曖昧」で、理解させることにも「不得手」で、フィードバックもないような場所で、「育つ」も、くそも、へったくれもないということです。
以上、「育つ – 育てる」の「二分法的問い」のお話しでした。
結局、以前にも述べたような気がしますが、「ヒト」のかかわる世界において、何らかの「二分法」が提示されたら、特に用心が必要です。
それは答えをだすまえに、一歩立ち止まって、考える必要があるように思います。
「ORの発想」ではなく、「ANDの思考」
とは、よく言われることばですが、特に「ヒトのかかわる世界」には、「二分法的問い」は、あまり有効であることはないようにも思います。
これで今週はおしまいです。
それでは、みなさん、素敵な週末を!
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■2012/11/03 Twitter
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追伸.
たまたま筆ペンを手にしたので、ひとつ書いてみました。意味はあまりないんです(笑)。特に、今日の記事とは1ミリも関係ありません。
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