2012.8.27 18:46/ Jun
僕が、学習という切り口から「経営・組織」といった領域で研究を志してから、はやいもので、もう15年弱の時間がたとうとしています。
はじめて、人材開発の研究をしようと口に出したのは、2002年のある研究会だったのですよね。「これから、企業と学習のことを考えたいんです」と申し上げたのは。会場は「は?」という感じで、鳩が豆鉄砲を食らったような感じでしたけど(笑)。
これまで上梓してきたいくつかの本に書きましたが、その当時、この「越境」を行う際には、それなりの覚悟と勇気が入りました。
「ルビコン河を渡る」ではないですが、「いい年ぶっこいて、河をいったん渡ったら、おいそれと、やっぱ、やめますー」ではすみませんので(笑)。
てめー、河を渡るからには、戻ってこない覚悟はできてんだろうな?
くらいの心の声を聞きながらの挑戦でした。
しかし、何とかかんとか、いやはや、何とかかんとか・・・この話をすると、これだけで1冊の本が書けちゃいそうですが・・・多くの実務家の方々、経営学の研究者の方々からご支援・ご助言をいただきつつ、何とか「今」に至っています。誠にありがたいことです。
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ところで領域間の移動、すなわち「越境」とは、時に「違和感」が伴うものです。
程度の差こそはあれ、「それまで自分が立っていたコンテキスト」とは、勝手が異なる「新たな地平」に足を踏み入れるわけですので、そこには、違和感が生じる可能性が高くなります。
違和感自体がよいこと、とか、悪いこと、というわけではありません。程度の差はあれ、越境には心理的葛藤が随伴する可能性が高い、という、それだけのことです。
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僕が、「経営・組織」といった領域に足を踏み入れたときにも、やはり、いくつかの考え方の違いで「違和感」がありました。
研究の主眼がいったいどこに置かれているのか。
組織の研究においては、何が最終のゴールなのか?
研究の宛先は誰なのか?
学問には、その領域ごとに、「暗黙の規範」や「研究者間の前提」が隠されているものです。
2002年からの足取りを振り返りますと、ふだん、あまり明示的に語られない、こうした事柄を、手痛い失敗を繰り返しつつ、ひとつひとつ学びながら、何とか適応をしていく過程であったように感じます。
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「違和感」といえば、「新たな地平」で目にした「ある言葉」に、思わずのけぞってしまった経験もあります。そのひとつが「Management Guru(マネジメント・グル)」です。
日本ではあまり言わないかもしれませんが、よく海外では語られたり、用いられたりする傾向があります。「非常に著名な経営学者」につけられる呼称であり「尊称」ではないか、と思います。
「Guru」とは「権威者・指導者・教祖のこと」。すなわち「教え導く人」という意味ですので、「Management Guru」とはさしずめ、「経営を導く人」という意味になりますでしょうか。そして、当時、僕は、この言葉に、ものすごく違和感を感じました。
なぜなら、この言葉の背後には、「経営に関する答え」は「現場にいないGuru(主導者・教祖)が持っており、現場の人々は、そのGuruの教えをご託宣のように受け取ること」という知識観 / 現場観 / 研究観が存在しているように感じるからです。
「いいや、そんな知識観 / 現場観 / 研究観なんてないよ。ただわかりやすいから使ってるだけ」
とおっしゃるかもしれませんし、そんな言葉は皆が使っているわけじゃないのかもしれません。
しかし、他の領域から越境してきた人が感じることというのは、そういうことなのです。
ふつー、「現場にいない研究者」のことを「グル(教祖)」と呼ぶかね???
教祖ですよ・・・教祖・・・・(笑)。
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この問題に関して、僕の考えはどうか、といいますと、むしろ「逆の考え方」を持っている、といって差し支えないかと思います。昔から、そして、今でも、この考えが1ミリも揺らいだことは、あまりありません。
現場のことを知っているのは、現場の人
現場を変えられるのも現場の人
現場を外部から支援する人が為しうることは
現場の方々の声を「聴くこと」
「いつか別れが来ることを知りながら、協働すること」。
そして
現場の方々が考えたり・対話することの資源やきっかけをつくること
俯瞰的なデータ、思考枠組みを提示すること
(「いつか別れが来ることを知りながら」という言葉は、これだけで、また、「実践と研究」に関する論文が書けちゃいそうな出来事がたくさん経験してきたのですが、ここでは掘り下げますまい。このテーマでは、何度か学会で激論を交わしたことがあります。フィールドをもつ研究分野では、答えのでない、永遠のテーマかもしれませんね)
僕は、そういう知識観、分業観のもとで、アカデミックなトレーニングを受け、みずからも、そうしたパースペクティブを獲得してのでしょう。ですので、最初に「Guru」という言葉を聞いたときは、本当に焦ったことを覚えています。
「Guru」本人が、そう呼んでほしいというわけでなく、きっと、誰かが使い始めた言葉なのでしょうけれど、そういう言葉を見かけるというのは、極めて面白いことのように感じます。もちろん、それがいいとか悪いとかいうつもりはありません。
今日は、この言葉への違和感を通して、越境するとは違和感を感じることなのだ、ということを言いたいだけです。
そして、そのリアリティとは、こういう現象にあらわれる、ということです。
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早いもので、もう10年です。
今年僕は37歳ですので、10年前は27歳。そして次の10年が終わる頃には、47歳です。時間を大切にしなくてはなりませんね。
そして人生は続く。
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