2012.1.31 06:47/ Jun
あまり取り上げられることのないことかもしれませんが、どんな人材育成・人材開発の手法・あり方にでも「リスク」があります。
例えば「職場の人間関係から学ぶ」という場合。
OJTなどをはじめとして、職場の人間関係から学ぶ、という場合 – そのためには、意図的であれ、非意図的であれ、職場に社会的ネットワークを発達させる必要があります。
しかし、ここにこそ「注意」が必要です。
これは人材育成に限られませんが、「ニュートラルな言葉」「語感がよい言葉」ほど、世の中では、「要注意」なのです。それは人々を「思考停止」させ、魅了してしまうからです。
先ほどの「職場で学ぶ」という場合、ここで取り上げられている「社会的ネットワーク」は、とてもニュートラルで、耳障りのよい言葉ですが、これが発達するということは、副作用も存在します。
よろしくないネットワークが発達した場合、意志決定プロセスが複雑化し、根回しが必要になる「重い組織」を生み出す原因にならないわけではありません。
また、「社会ネットワーク」として、適切な人が若年層にアサインされない場合も、ややこしいことがおこります。過去の成功体験をひたすら繰り返す「厄介な人物」がメンターに割り当てられる可能性もゼロではありません。
ほらね。
▼
「経験から学ぶ」ということだって同じです。
経験とはとても「ニュートラル」で「語感のよい言葉」です。それは人々のロマンティシズムと懐古願望(昔は、あんな経験をして苦労したよ)をかき立てます。
しかし、ボルノウを引用するまでもなく、それは、ひと言でいえば「受苦」を意味します。
個人が、現有する能力を超えた課題に対して「行為」し、その行為があるが故に「受苦」を経験する。「経験から学ぶ」とは古今東西、世界中に存在する格言ですが、その意味するところは、そういうことです(中村 1992)。それはひと言でいえば「受苦」。
この概念も、本来の概念が目指すところを超え、それが狡猾に利用された場合、「業務能力を超えた過剰な要求が個人に対して付与される」ということになります。「ほら、おめー、経験から学べよ!」という具合に、「過剰な要求」が、個人に対して経営側から突きつけられることになります。
そして、万が一、過剰な要求に耐えられなかった場合、個人の資質や能力の欠如が原因である、とされがちです。
「あいつ、やっぱ、ダメだったか。経験から学べなかったね」
その場合、たいていは、マネジメントの不味さ、業務付与のまずさ、組織の狡猾さが、問われることはありません。最悪の場合、その先にあるのは、Up or outの発想でしょう。
ほらね。
▼
ここで、重要なことは、「だからこそ、ゼロリスクをめざすのではない」ということです。「やっぱ、職場で学ぶってダメだよね、経験から学ぶってヤヴァイよね、ちゃんちゃん」という風に、話を簡潔に片付けない、ということです。
むしろ、そのリスクを分かった上で、どのように施策を組み立て、運用するか、を考えなくてはなりません。たとえば、「職場で学ぶ」の場合には、社内の人材育成の風土を良好にする手立てや仕掛けが、必要になります。「経験から学ぶ」の場合には、マネジメントやマネジャーのあり方が、問われる必要があります。
敢えて、リスク社会論の知見を持ち出すまでもなく、「この世の中には、ゼロリスクの地平は存在しません」。たとえ、何も行為しなかったとしても、「ゼロリスクではない」。何もしない、ということが、そもそも「リスク」なのだから。
かくして、人材育成においても、「あらゆる実践にはリスクが存在している」という認識をまず持つことが必要です。そして、その上で、そのリスクを0にはならないまでも、いかに軽減できるかを考えるのが「知性」だと僕は思います。
どんな人材育成・人材開発の手法・あり方にでも「リスク」がある。そして、一見、ニュートラルに見える言葉ほど、このような「知性」の介在する余地がある。そして、物事には、「リスク」と同時に「可能性」が拓けている。
今日のお話は、そういうことです。
追伸.
えっ、もう1月終わっちゃうの! 今気づきました。あまりに早い。
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