2010.1.8 17:00/ Jun
テレビ 54分
ラジオ 0分
新聞 2分
雑誌 0分
PC 2時間30分
ケータイ 1時間30分
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このデータは、博報堂DYメディア環境研究所が実施した「メディアライフ密着調査」の結果。神奈川県の公立学校に通う、ふつうの16歳の女の子の一日を、朝起きてから、夜ねるまでビデオカメラで追いかけて算出した数字だという。
(なんという調査手法!)
この女子高校生が成人するのは、もはや数年後。家庭をもち、子どもをもつのはいつの日か。そのとき、私たちは、どのようなマーケティングを行えばよいのか。
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先日、博報堂のプロジェクトミーティングの帰り、同社の百合岡さんから、一冊の本を献本いただいた。
(百合岡さんは、慶応MCCでの僕の授業「ラーニングイノベーション論」Class of 2009のアラムナイの一人でもあられる。)
「自分の会社の本ですけど、僕は面白いと思うので、ぜひ、読んでみてください」
「僕は面白いと思う」とおっしゃっていたのが非常に印象的だった。百合岡さんが、面白いと思うのだから、きっと面白いのでしょう、と思った。
手渡された本が、博報堂DYグループエンゲージメント研究会著「自分ごとだと人は動く」(ダイヤモンド社)である。
本書は、博報堂DYグループの有志達が次世代型のコミュニケーションモデルを模索した本である。文体は一般向けに書かれており非常に読みやすい。
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新聞やテレビが非常に大きな力をもっていた1970年代のマス広告の時代。
私たち消費者は、いわば「大衆」であった。企業から生活者へのコミュニケーションモデルは、いわば「導管モデル」である。企業が圧倒的な力をもっていた時代であった。
80年代、時代はキャンペーンの時代に入る。経営学では「競争戦略論」がもてはやされ、そこに「市場」が誕生し、マーケティング手法は「選択」と「差別化」の時代を迎える。
この時代の消費者は、いわば「分衆」であった。いかに消費者をターゲッティングし、セグメント化するのか。そして、商品の差別化するのか。
差別化せよ!、差別化せよ!、差別化せよ!
これが時代のメッセージであった。
しかし、時代は2000年に突入する。インターネットが普及し、双方向メディア環境があらわれる。「分衆」は、それぞれの興味や関心のもとに、ゆるく、人と人を介してつながり、出会いはじめた。「分衆」は「網衆」と変化する。
「網衆」時代の人間関係は、「タグ」と「検索」に支配されている。人々は自らに複数の「タグ」を付与し、その「タグ」のもとにつながることを覚えた。
また、さらなる情報環境の発展によって、「情報爆発」がはじまった。人々は、押し寄せるビットストリームの荒波を生きる個人になる。
日々押し寄せ得る「情報の大海」の中から興味のある情報を見つけ、それを、自分につながる人々と「シェア」する一方で、「情報を拒否すること」「情報をスルーすること」が重要になりはじめた。
「気づかない」「見切る」「放っておく」ことが、大切な情報スキルになりつつある。目立たないもの、関心のないものはすべて「スルー」される。
このような状況にあって、次世代のマーケティングは、いかにあるべきか。本書で提案しているキーワードのひとつが「To CからWith C」である。
「To C」とは「To customer」のこと。いわば企業から消費者に「導管」が伸びている状態、そのようなコミュニケーションモデルに基づいたマーケティングを彷彿とさせる。
そうではなく、この本が提案するのは「With C」である。
With Cとは、消費者とコラボレートしたり、消費者の参加をうながすマーケティングである。あえてツッコミドコロをつくり、「自分事」として感じてもらい、参加してもらう。新たなマーケティングのあり方が模索されつつある。
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個人的に非常に興味深かったのは、本書で紹介されていた、最近のクリエィティブの人々が口にする言葉である。
「あえて、ざらつきを残すようにする」
「スキマをつくっておく」
「パッケージにしないようにする」
クリエィティブの人々から、こういう言葉が語られることが多くなっているのだという。「ざらつき」があり、「スキマ」があり、かつ、「パッケージになっていないプロダクト」とは、かつてのマーケティングではタブーとされたことだろう。その時代の常識とは、全く異なる発想だろう。
ざらつきがあり、スキマがあり、パッケージ化しないもので、かつ、テーマが秀逸であれば、人は関与してくれるはずである。
生活者が興味や関心をもつような「凸」のあるテーマをつくり、一方で、生活者が共振・参加してくれる装置「凹」を確保する。
マーケティングに、いかに「凹」「凸」をつくるのか。クリエイターやプランナーと呼ばれる人々は、そのことを考え始めているのだという。
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アタリマエのコンコンチキだけど、僕は「マーケター」でもなければ、「広告研究者」でもない。その領域の専門知識はゼロなので、ここで展開されている議論の詳細は知らない。
でも、本書はマーケティングの本ではあるけれど、僕は、実は、全くそのようには読まなかった。自称「学習バカ」の僕の目には、この本が「学習の問題」を扱っているようにしか見えなかった。
人をいかに動かすか?
人にいかに参加してもらうのか?
近年の学習論においては、学習とは「参加」であり、「移動」であり「越境」である。人は、様々なコミュニティやネットワークに参加・関与し、あるいはノットワークをときおり形成しながら、その境界を越境しつつ学ぶ。
そういう目で見るならば、そこで紹介されているアイデアは、この不確実きわまる時代に、いかにして「学びの環境」をつくるのか、ということにつなげて読むことができるのではないか、と思う。
人々が参加してくれる、「ざらつきのある学びの環境」とは何か?
人々が関与してくれる「スキマのある学びの環境」を、どのようにつくりだすことができるのか?
人々が自らデザインすることのできる「他人にパッケージ化されていない学び」とは何か?
僕は、こんな風にこの本を読んだ。
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最後になりますが、博報堂の百合岡さんに心より感謝いたします。
すてきな思考をありがとうございました。
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