2008.5.27 07:07/ Jun
「多様であること」というのは、近年の「神話」のひとつである。「多様であること」が既にひとつの価値をもっており、おおむね「よさ」として、人々のあいだ語られる。
「多様な人々」や「多様なもの」の中から「新しいアイデア」が生まれ、多様な中から「新しい意味」が生まれる。自らも、その「価値」や「可能性」に魅了され、これまで研究を行ってきたことを正直に告白する。
しかし、「多様であること」の「理想」と「現実」は激しく異なってる。これまで大学の中で行われてきた実験室研究は、「多様であること」によって語らずしも、集団から新しい意味や、新しいアイデアが生まれるわけではないことを、明らかにしてきた。
メンバーのプロフィールに多様性が必要なのか、それとも、メンバーのアイデアに多様性が必要なのか、それとも、反対にプロフィールやアイデアに「とっかかり」となるような共通点が必要なのか。実験室研究でわかっていることはたくさんあり、その中には重要な知見も多い。
しかし、実験室課題ではなく、現実の場の、現実の問題解決で、それらの知見が、どの程度あてはまることなのか、まだわからないことも多い。
僕も、少し前まで協調学習研究をやっていた。「複数の人々が学ぶ場」をつくり、いくつもそのプロセスを見続けてきたけど、学習の現場であっても、上記のような実験室研究の知見には、同意できるところが多い。
協調学習の現場は、常に「葛藤」と「停滞」の緊張状態の中にある。「多様なもの」が集まり、ぶつかったからといって、必ずしも新しいサムシングが生まれるわけではない。
だから、僕は「多様であること」に対して、心では「あこがれ」を感じつつも、そこに生じる「様々な困難」も同時に感じてしまう。
そして、近年、様々な場面で主張されている
「多様な人々のあいだの対話は、新しい意味を自己組織的に生み出す」
とする、ややナイーブな認識を耳にするたびに、つい、「大丈夫かな、うまくいくといいけどな」と思ってしまう。
誤解を避けるために言っておくが、僕は「多様であること」そのものに対して疑義を示しているわけではない。「均一であれ」「画一的であれ」と、もちろんない。
「多様であることの中から新しい意味や価値を生み出せる」とする仮説が、実は必ずしも成立するものではないこと。多様であることによって起こる出来事は、「予定調和」や「自然発生」といった言葉では言い当てることのできない、ある意味で、予測不能な「すさまじさ」をもつことを述べている。
自戒を込めていうが、その可能性や価値を語り、実践しようとするならば、「ささやかな覚悟」を決めたほうがいい。そこで起こっている出来事がどのようなものであるか、について、誰にでもわかる言語で、アカウントすることに取り組まなければならない。
多様とはすさまじい世界である。
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