2008.5.1 00:21/ Jun
いわゆる「パネルディスカッション」を聞いていて、オモシロイと思ったことが、僕にはほとんどない。
「偉そうに、何様だ、コラ!」と便所スリッパでぶったたかれそうだけど、本当にすみません。でも、学生である時分から、パネルディスカッションを聞くたびに、「つまんないなー、話かみあってないじゃん」といつも思っていた(そんなこともあり、ほとんどパネルディスカッションには行かないので、実は、あまり経験がないのですけれど)。
ご登壇する個々の方々の話に感銘を受けたことは何度もある。しかし、「パネル全体」としては、聴衆として聞いていて、オモシロイと思ったことはほとんどない。
それから十数年・・・僕も及ばずながら、パネルディスカッションに、論者として登壇する立場になった。
オーディエンスの方々は、今、何を考えていらっしゃるのだろうか、どのような感想をお持ちなのだろうか。本当にめんぼくない。登壇するたび、いつもオドオドした思いにかられてしまうことを、正直に告白する。
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Wikipediaによると、パネルディスカッションとは、「一つのテーマを掲げ、様々な意見・立場の論者を複数集め、公開で討議を行うこと」を言うらしい。1990年代頃から盛んに行われるようになったとのことである。
パネルディスカッションがオモシロくならない理由には、いくつかの理由が存在する。思うに、下記の5つだ。
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1.一つのテーマがそもそも設定されておらず、ゆえに、焦点化された議論が行えない。よって、しまいには何を討議しているのだかわからなくなってしまう。テーマの設定に無理がある場合も多い。
2.聞いただけで違いのわかるような立場の違った論者が集められていない。あるいは、論者の立場の違いや意見の違いがわかりにくい。故に、何が論点なのかが明瞭ではなくなってしまう。
3.とにかく、論者のあいだで、事前の打ち合わせが全くなく、議論がどのように展開し、どの方向に持っていける可能性があるのか、コンセンサスがない。
4.司会のムチャブリ。「そんな話題を、公衆の面前で振られても、答えられるわけないでしょ」と思わず「ちゃぶ台」をひっくり返したくなるような話題の振られ方をして、結局、「うーん、難しいですね」と答える他はなくなる。
5.司会者の時間の読みが甘い。時間切れになり、尻切れトンボで終わる。
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一言で言ってしまえば、パネルディスカッションがオモシロクないのは「準備不足」であると、僕は思う。別の言い方をするならば、パネルディスカッションはK-1ではなく、プロレスである(笑)。それには、本来、事前の準備、打ち合わせが欠かせない。
しかし、だいたい、パネルディスカッションの打ち合わせは、事前に全くなされないことの方が多い。ステージ上でパネラー同士がはじめて逢うといったことの方が多いくらいである。
こんなことを言うと、
「えー、パネルに事前の準備が必要なの? 出たとこ勝負だからこそ、オモシロイんじゃん・・・インプロヴィゼーションだよ、インプロヴィゼーション!」
という意見が、聞こえてきそうだ。
たしかにそう、そのとおりです。ただし、それには条件がある。それは登壇者と司会者に、「よほどの力量」があれば、の話である。インプロヴィゼーションできるなら、それでもいいんじゃないでしょうか。
「力量」とは「それぞれの領域に関する知識がある」という意味ではない。問われるのは、それを「オーディエンスに伝える能力」である。
もちろん、登壇者が「限られた時間に、ひとつのテーマについて、様々な視点から、オーディエンスにもわかるかたちで、オモシロイ議論をみせることができる人」から構成されているならば、「出たとこ勝負」でもいい。
しかし、想像すればすぐわかるように、それは本当に「神業」だと思う。少なくとも、僕のような「ぺーぺー」は絶対にできない芸当だ。「出たとこ勝負だったら、あとにぺんぺん草もはえないような、しょーもない話をしてしまう」のが関のヤマである。
ちなみに、イベントの主催者側からすると、パネルディスカッションとは、気楽で安易な企画である。このことは、あなたが、パネルディスカッションの登壇依頼をする立場になったとして、考えてみればわかりやすい。
たとえば、講演を依頼するのだったら、相手にパワポの準備もしてもらわなければならないし、時間も持たせてもらわなければならない。
しかし、もしパネルへの登壇だったら、相手にそうした負担はかけないだろうと考える。講演を依頼するときに比べて、パネルの方が、気が楽にならないだろうか。
「今回ご依頼したいのは、パネルディスカッションなんです。いやいや、準備はいりません。センセイのふだん思っていらっしゃることを、ドカーンと、バコーンと会場の皆さんに聞かせてやってください。
なーに、行き当たりばったり、何が結論になるかわからない方が、会場の皆さんも楽しいですから。
えっ、他に誰が登壇するかって? いやー、実はまだ決まってないんですよね。でも、誰が登壇したっていいんです。センセイは好きなことをカキーンと喋っていただければ」
もちろん、主催者に言われたことを信じて、登壇者は、当日を迎える。
かくして、パネルディスカッションは、「出たとこ勝負」の「新春大放談」になるか、議論の空中戦ならぬ、「主張の宇宙戦」になってしまうのである。
オーディエンスだけが、ひとり残される。
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僕の認識に関する限り、「オープンな議論を、オーディエンスにわかるかたちで、かつ面白がってもらえるような演出で行うこと」の方が、いわゆる「講演を行うこと」よりも100倍難しい。
しかし、通常の「認識」は逆である。ゆえに、パネルディスカッションは準備がなされない。だから、なかなかオモシロクならない。
冒頭で言ったように、僕は「パネルディスカッション」を聞いていて、オモシロイと思ったことほとんどがない。個々の登壇者の話に感銘を受けたことはある。でも、全体としてオモシロイなぁ、と思ったことはほとんどない。他の人はどうかわからぬが、僕はそうである。
それは、多くの場合、パネルディスカッションに登壇している人が提示する「話題」が悪いというわけではない。単純にパネルディスカッションを行う準備や工夫が足りてない、と思うのだが、どうだろうか。
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ちなみに、僕自身は、パネルディスカッションとは違ったやり方で、何とか「オープンな議論を公開の場で見せることができないか」と考えている。
ワークプレイスラーニング2008やASTD Japanの立ち上げのシンポのときのように、ケータイでレスアナをやったり、途中にオーディエンスの議論をはさんだり、やり方に微妙な工夫を加えている。
もちろん、そのやり方がベストだとは思っていない。まだまだ改善の余地もある。すでに、いくつかの不満は耳にしている。しかし、「準備や工夫なしでは、オープンな議論は、わかりやすく、オモシロイものにはならない」ということだけは肝に銘じている。
月並みなようだが、事前の準備が大切である。
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(本心を言うと、1時間近くの長時間にわたって、他人の議論を一方向的に聞く、というパネルディスカッションという形式に、そもそも無理があるのではないかと僕は思っている。議論は聞くものではなく、参加してこそおもしろい。本当のことをいうと、人は、他人の話を聞くだけでは満足しない。自分が話したい。あるいは他人と話したいのである)
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