2008.4.21 23:13/ Jun
「学習研究は、最後の最後には、”明るい未来”を提案しなければならない」
「後世を変えうるものは、”最後に希望があるもの”だけだ。だから、どんなにしんどい現実においても、学習研究は、最後に”希望を書く”のだ」
僕の恩師がよく口にしていた言葉である。一字一句正確ではないが、おそらく、上記のような趣旨のことを、かつて、学部生の僕におっしゃっていた。学部生には熱すぎる言葉だね。
曰く、
「暴くだけ現場の矛盾や現実を暴き、あとは知らんぽん、現場でよろしく勝手にやってね、ではいかん。論文として採録されるかもしれんが、それでは研究の大切なポイントを果たしていない。
かといって、現実のすさまじさから目をそらして、「今、ここで役に立ってるんだからいいでしょ」的な態度を決め込むのもいかん。それは学問の責務を果たしていない。
現場の現実を無視せず、学問としての鋭さを失わない。そして、その状況下で、学習研究は、最後の最後には、現場に”未来”を提案しなくてはならない。学習研究は、”希望を書かなくてはならない”。これは本当に難しいのだよ、おぬし」
—
今、僕は、いろいろな研究プロジェクトで、企業人材育成の「現場」にかかわりながら、社会調査を行ったり、教育体系づくりにかかわらせてもらっている。大変ありがたいことである。
ひとつひとつの案件ごとに、現場が抱えている問題は個別具体的。そして、その根っこはめちゃくちゃ深い。たいていの場合、そこには、とても「人間くさい問題」が横たわっている。
そして、そのたびに思う。
学問としてコレクトであっても、「現場で起こっている出来事」とは距離のある提案に、人は納得しない。「学問としては成立するかもしれないが、それが解決されても、されなかったとしても、者会にとっては、どうでもいいもの」は、現場の人にとっては、やっぱり、「どうでもいい」。
理論的には正しくデザインされてはいるものの、それがあろうがなかろうが、「将来の希望」にとって変化がないものは、やはり、誰も選択しない。
学問の立場からは稚拙に見えたり、理論的不純を抱えるものであっても、現場の感覚がそこに反映されており、かつ、そこに「未来の希望」を感じることのできるシステムを、人は選ぶ。
しかし、だからといって、学問や理論が全く役に立たないわけではない。現実を前にして何から手をつけてよいかわからないとき、現実に起こっている出来事の解釈を行うとき、それは非常にパワフルな枠組みとして機能することがある。
現場と学問、そして希望
この3つが融合する瞬間を、いつも夢見ている。
けだし、僕の構想する学習研究は、学会誌に論文を投稿することが仕事ではない。
学びの現場に「希望」をもたらすこと、これが僕の仕事なのである。
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