2015.9.1 06:05/ Jun
「師匠から弟子への学び」の根源にあるのは「学ぶこと」云々よりも、「師匠との共同生活」そのものにあるのではないかと思います。
「師匠から弟子への学び方」は、「人材開発の言説空間」に「ロマンティシズム」と「ノスタルジー」をともないつつ、頻繁に出現してきますが、その学びの根源には「生活をともにすること」があることは、あまり知られていません。
もちろん「師匠と弟子の関係」といっても、昨今は、ずいぶん、その意味も薄れてきているのでしょうけれど、もともと「師匠と弟子」の関係とは、「生活」をともなうようなかなりディープなものでした。
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「師匠から弟子への学び」ーそれは第一に、師匠と弟子が「疑似縁」をむすび、いわば「血縁」のような関係をむすびあす。弟子が複数いる場合には、師匠ー弟子達は、いわば(1対N)の家族システムのような集合体をなすことになります。
畢竟「家族的である」ということは、そこには「生活」が生じます。前述しましたように弟子の学びは「師匠との生活」が拠点です。そこに、ごくごく希に「教育的瞬間」が埋め込まれ、師匠から学びを受け取ったり、フィードバックがなされます。
多くの場合、その瞬間がいつおとずれるかはわかりません。カリキュラムもありませんし、プランも多くの場合はありません。師匠に「いつですか?」と聞くのは野暮というものです。
ここで弟子達に求められることは「待つこと」です。「待ち焦がれること」を抜きにした「師匠と弟子の学び」はそう多くないものです。
もちろん、そこでの学びとは言語コミュニケーションによるものだけとは限りません。「非言語コミュニケーション」を介して、あるいは、師匠の「威光」を通して行われることもあるので、やはり「師匠」との生活をともにして、師匠を感じなくてはならないのではないかと思います。弟子達に求められるのは「感じること」です。
このような学び方は、当然ですが、気の遠くなるほど「長期の時間」を必要とするということと、その間、弟子がモティベーションを継続させられることが必要になります。
つまり、ワンセンテンスで申し上げますと「効率は悪い」かつ「脱落が多い」ということになります。むろん、それでいいのです。
くどいようですが、それが「悪い」と申し上げたいわけではありません。「風姿花伝」にも、下記のようにあるとおり、
わが風体の形木をきはめてこそ、あまねき風体をも知りたるにてはあるべけれ。
風姿花伝
「これでしか伝達できないもの」があるのでしょうから「致し方ない」のです。ただし、それは伝統芸能や匠の技ならではのこと。
人材開発を「師匠ー弟子」で語るとき、育成を「守破離」で語るときには、そういうコンテキストに自社の人材開発をおいているのだということを認識する必要があるのかなとも思います。「気の遠くなるほどの時間」と「脱落者がでること」は、現在の競争環境において、容易に是認できることではないのではないかとも思います。
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今日は短く「師匠と弟子」について書きました。せんだって、風姿花伝の和訳を読み直したことが、そのきっかけなのかなと思います。
今、検索してみると、2年に1回くらいは、思い出したように読み返して、ブログにも書いているみたいですね(笑)。
「背中を見て学ぶしかないもの」をいかにして他者に「伝えること」ができるのか?
http://www.nakahara-lab.net/2012/08/post_1873.html
また2年後に、こうした記事を書くことになるのではないかと思います。
2年後にまたお逢いましょう
そして人生はつづく
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