2013.12.10 13:36/ Jun
齋藤美奈子著「文章読本さん江」を読みました。
本書のタイトルに掲げられている「文章読本(ぶんしょうとうほん)」とは、谷崎潤一郎、三島由紀夫といった希代の大小説家などの手によって綴られる、いわゆる「文章の書き方講座(私の文章作法論)」のことです。
我が国には、古今東西、様々な名文家・大小説家によって、おびただしい数の「文章読本」が執筆されてきました。その無数に存在する文章読本を「読み解くこと」が本書のテーマです。
本書「文章読本さん江」は、この種類のジャンルの書籍を、ざざざーとレビューし、筆者独特のユーモアーと一流のアイロニーによって、ばったばったと切り込み、批評・整理した本です。本書のリサーチクエスチョンは、秀逸です。それは「文章を書く際に、何が大切なのか?」を追求することではありません。そうではなく「なぜ、この世の中にはおびただしい数の文章読本が存在し続けるのか」です。
文章読本に含まれる名文家の慢心や自己欺瞞や保身をオモシロおかしく茶化し、皮肉たっぷりに論じる。著者の文章力、論理構成力には舌を巻きます。さすがは文章読本をレビュー・批評するだけはありますね。これはよほどの向こう見ずさと、勇気がないと出来ない(笑)
心からリスペクトすると同時に、この本の出版後、新たに文章読本を書こうとする人は、よほど「腹をくくって、のぞむ必要がある」と思いました(笑)。本書は、そういう本です。
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ところで著者・齋藤さんの指摘において、僕が、最も興味深かったことは、我が国の文章読本、そして、作文教育が「あるがままを書け」、すなわち、「思ったとおりに書くこと」「感じたとおりに書くこと」を、価値として保ち続けてきた、という指摘でした。
(時代によっては形式が重んじられる時期もあります。詳細は本書、ないしは作文教育の専門書をごらんください)
反面、そうした価値に対応して軽視され続けてきたことは、「文章のジャンルに応じた書き方」を教えること。
たとえば、文章には「ジャンル」というものがあり、それがエッセイでというジャンルであるならば「結論を最初に書き、その後、根拠・流を複数明示したうえで、もう一度総括する」という、いわば「文章の型」を教えることを「忌避」する傾向があったのだといいます。
僕は、国語教育も作文教育も、全くのドシロウトなので、過去現在にどのような議論やイデオロギーが作動していたかは知りませんし、今後もその予定はありません。
しかし、「全くの専門外」「ドシロウト」であることをいいことに、自らの経験を振り返り、まさに「感じたまま」を述べさせていただくのだとすると、齋藤のこの指摘は、「僕自身の被教育歴」を振り返っても、そして、「自分の子どもの学習している様子」を傍らで見ていても、かつてはもちろんのこと、今なお、当てはまるような気がします。
ーあるがままを書けー
このことは、裏返せば、すなわち「思ったならば、そのまま、書けるはずだ」「感じたならば、そのまま、書けるはずだ」ということを意味します。それは、さらにいうならば「書けないのは、思っていないからだ」「書けないのは、感じていないからだ」ということにつながります。
そこに潜む、ある意味の「感情主義」というのか、「あるがまま信仰」に、僕は、違和感を感じますし、まあ、窮屈さを感じます。あ、この「窮屈な感じ」なんだよ、「文章を書くとき」に、子ども時代の僕が嫌っていたものは。
もちろん、「思ったことを、そのまま、書くこと」も「感じたことを、そのまま、書くこと」、一面では大切なのかもしれません。
が、どうも、僕は、そこに違和感や窮屈感を持ちます。また、教員になってからは、学生のレポートを見るたびに、もう少し「型」を学んできて欲しいな、と感じてしまうようにもなりました。
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どうやら、今日の話題は、僕自身のルサンチマンに触れているようです(笑)。
ブログでは何度か話題にしておりますので、繰り返し目にした方もいらっしゃるのかもしれませんが、今でこそ、本や論文を著し、ブログを毎日書いている僕自身、小学校・中学校の頃は、本当に「文章が嫌い」でした。
実際、僕の文章は「惨かった」と思います。絵日記を書けば「今日は味噌汁を飲みました。おいしかったです」という文章になってしまうし、読書感想文を書けば、「アンクルトムの小屋とは・・・・・の内容でした」と本をひたすら要約してしまいます。
思ったことを書けたことも、感じたことを書けたことも、記憶の限り、一度もありませんでした。
今になって思えば、そこに足りていなかったのは、「ジャンルを意識すること」ではなかったかと思います。もっといえば、「なぜ書くのか?」「誰に届けるのか?」を考えることではなかったかと思います。そのことに、自ら、はやく気づくべきでした。
その上で、「型」を意識したうえで、書くことができたのだとしたら、逆説的になりますが、僕は、もっと文章を「自由」に書けた気がします。
いや、うまく書けた、書けないはいいにせよ、「文章に苦手意識をもったまま大人になるまで過ごすこと」はなかったのかな、と思います。
もちろん「型」を過剰に意識しすぎることは、「伸びやかな自由な表現」を奪ってしまう、といった批判も理解できます。
実際、著者の齋藤さんは、世に流布する「読書感想文」に含まれる定型的なフォーマットは、1)書籍の要約、2)それに関連した自分の生活経験の記述、3)自己変革のストーリーの提出という、ステレオタイプに陥っていることを指摘しています。
子どもたちが、これらのフォーマットに逃げこみ、思考停止するのだとしたら、それはそれで問題なことなのでしょう。
しかし、僕のように文章を書けない、苦手意識をもつ人々の多くは、むしろ「それ以前」であるようにも思います。はっきりいって、そんなレベルじゃない、もっと初期的なところで、何に躓いているのかもわからず、躓いているような気がするのです。
それ以前に、なぜ書くのかわからない。どう書いていいかわからない。そして、誰に届けていいのかわからない。こうした場合に、ジャンルや型を意識させることは、「自由に書くためにこそ」、大切なのではないか、と感じました。全く専門外の意見なので、真に受けないで結構ですが。
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今日は、少し感情的になってしまったかもしれませんが(真に受けないで下さい・・・先ほど述べましたように文章は僕にとってオルサンチマンを抱えたことなのです)、「文章を書くこと」について書いてみました。
ちなみに、僕が「文章を書くこと」に目覚めたのは大学時代であり、そこでリハビリをつみましたが(話が長くなるので、この話は、また別の機会にします)、世の中には、文章に苦手意識をもつ人は大人になっても多いような気がします。
考えてみれば、ホワイトカラーの仕事とは「文章」とは切り離して考えることは難しい場合が多いものです。少しこういう視点からManagement and Leanringのフィールドで、何か面白いことができないかな、と考えています。
そして人生は続く
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追伸1.
本日紹介した書籍は、先だってのゼミで、中原研OBの舘野さんが紹介してくれたものです。大学院生から多くのものを学ばせてもらっています。心より感謝いたします。
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追伸2.
ちなみに「文章読本(文章作法)業界の5大心得・教訓」とはこんな感じだそうです:1)わかりやすく書け、2)短く書け、3)書き出しに気を配れ、4)起承転結にのっとって書け、5)品位を持て(齋藤 2002)
反対に「文章読本業界の三大禁忌」とはこの3つ:1)新奇な語を使うな、2)紋切り型を使うな、3)軽薄な言葉を使うな(齋藤 2002):文章読本とは「小姑」に似ている、とのこと。
で、「文章読本が推薦する三大修行法」はこちらです:1)名文を読め、2)好きな文章を書き起こせ、3)毎日書け(齋藤 2002):よく目にしますよね、このありがたい教えを・・・冷や汗。
デジタル時代の文章作法の5大心得はこんな感じ:1)魅力的な見出しをつけろ、2)改行を多くせよ、3)長いテキストは小見出しをつけろ、4)漢字を減らせ、5)ここぞという場所は色・サイズを変えろ(齋藤 2002)。
ね、しこたまレビューされて、ここまで言い切られたら、もう、「グーの音」も出ないでしょ(笑・・・紋切り型を使うの禁忌を破る)。新たに文章読本を書こうとするときには、よほどの勇気と腹くくりが必要かもしれませんね。
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