2012.11.28 08:24/ Jun
仕事のプロフェッショナルになれ!
組織で働いてもプロフェッショナルをめざせ!
ジェネラリストになるな、プロフェッショナルをめざせ!
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最近の人材育成に関する言説空間には、「プロフェッショナル」という言葉が踊ります。何となくわかるようで、わからない、この「プロフェッショナル」という言葉なのですが、もともとは、どういう意味なのでしょうか。
なかなか皮肉なもので、上記のような主張は、「プロフェッショナルをめざせ!」と声高にいっているのにもかかわらず、肝心の「プロフェッショナルとは何か?」に関する定義がないという特徴を?もっているように思います。で、何をめざしていいんだか、わかんない(笑)。
時には、虫眼鏡を持ちながらシャーロック・ホームズのように、ロジックをたどっていくと(すみません、仕事柄、ロジックが気になるのです)、
「プロをめざせ=要するにオレのように仕事をしろ=ていうか、オレをめざせ=そしたら成功する(=失敗したらおまえの努力がたらん)」
という議論もあるくらいなので、なかなか、注意が必要ですぜ、ワトソンくん。こういうのを、小生は「オレ様プロフェッショナル論」と読んでいます。
ですので、今日は、一歩だけひいて、プロ≒プロフェッショナル≒専門職として、これを考えてみましょう(時間の許す限り・・・朝はまことに時間がない!)。要するに、お話しするのは、プロフェッショナルに関する「豆知識」です。たぶん、この豆知識があってもなくても事態は変わりませんが(笑)、プロフェッショナルとはそもそも何のことなのかを、一歩引いて知っておくのは、無駄ではないかもしれません。
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プロフェッショナルは、いわゆる専門家論という学問分野において、探究されています。僕の研究分野とは異なるので詳細はわかりませんが、でも、横から覗いてみると、その学問分野においては、これまで星の数ほどの専門職の定義がなされてきました。
それを細かく見ていくのもよいのですが、専門家に便所スリッパでカンチョーされるのを覚悟して(我が息子TAKUZOの得意技です・・・笑)、小生得意の「ザクッとひと言」でいいますと、だいたい、1)知識・教育、2)コミュニティ、3)倫理・公共、4)オートノミーの4つのタイポロジーによって、それは定義されています。
要するに、
・どんな風に学び、どんな知識を有している人か?(知識・教育)
・どんなコミュニティに属している人か?(コミュニティ)
・どんな職業倫理をもち、パブリックミッションを果たそうとしているか?(倫理・公共)
・仕事にどれだけ自律性をもっているか(オートノミー)
ですね。
代表的なところでは、もっとも古典的なフレックスナーの6つの資質論が有名です。
・知的な職業であり、適切な選択と重大な責任をもった判断を行えること
・特定分野における高度な体系的知識を有し、かつ、長期間にわたる教育訓練をへていること
・体系的知識が現場で適用可能であり、実践的であること
・知識だけで対処できない場合には、獲得している技能で問題に対処可能であること
・専門家団体を有しており、資格認定などを行っていること
・公共への奉仕を行えること
を満たす人をプロフェッショナルとよぶのですね。なんか、すごそう。
これを簡略化したものとしては、エツィオーニ(1964)の定義
・職務遂行上活用できる知識体系を有すること
・専門職養成のための教育課程においての訓練を受けていること
・専門職団体が存在し、それに加入していること
・高い倫理綱領をもつこと
とか
スローカム(1966)の定義
・理論的基礎、知識的基礎をもつこと
・専門職団体が発達していること
・専門家としての価値観・倫理観をもつこと
・コミュニティに対する献身を旨とすること
・専門家としての自律性をもっていること
などがあげられます。
また、おおざっぱな話で恐縮ですが、だいたい定義の項目は、4から6の間だわ、だいたいね(ごめん)。
上記の定義から、まー、なんとなくイメージはつかめますね。
かっちりとした理論体系をもっていて、専門職団体が発達していて、自律的に自分で仕事を行い、そして、その仕事には公益性が存在する
そういうものが、専門職だということですね。
うーん、冒頭の巷に流布する「プロフェッショナル論」と、ちょっとイメージが違いますね。
ところで、こんな風に、専門職を位置づける社会的属性を列挙していく研究のあり方を、属性論などという風によびますが、それとは、また一線を画するようなアプローチもあります。
属性論に対応して、たとえば「プロセス論」と呼んでもよいのでしょうが、それは専門職の仕事のあり方から、専門職を位置づけようとするやり方です。そして、その主張は、属性論が一般的に、専門職に「かっちりとした知識ドメイン」を想定するのに対して、少し趣が異なっています。
その代表格は、かつてMITで教鞭をとっていたドナルド=ショーンですね。
かつて、ショーンは、
プロフェッショナルとは
「自分が学んだことのない仕事」
「教えられたことや教科書の枠には当てはまらない隙間の仕事」を行う人だ
と言ってのけました。
専門家の仕事を子細に観察すると、かつての理論が想定しているような「かっちりとした知識ドメイン」を現場・状況に適応するといったことが、あまり行われていない。例えば、ショーンが観察した眼科医の場合、患者の多くは教科書に載っていない問題を抱えているといいます。症例の80%は、自分が、これまで慣れ親しんだ治療や診療にあてはまらなかったそうです。
「自分が慣れ親しんでいない状況」「いまだ定義が定まっていない問題」と向き合い、自らの知識を駆使し、行為し、その中で考える
ショーンは、そういう人をプロフェッショナルとして描き出します。
そして、皮肉を込めて、こう言います。
「沼沢の多い低地の問題」では「技術的な解法」は否定される。皮肉なことに「高地での問題」は、それが「技術的にいかに興味深い」としても、個人や社会にとっては重要ではないという傾向があり、逆に人々の大きな関心を集める問題は「低地の沼沢地帯」に存在する /
実際に問題に当たる実践家は、ここで選択しなければならない。高地にとどまって、「厳密性をもった巧みなやり方」で、相対的に「重要ではない問題」をとくのか?それとも、重要な問題が存在する沼沢まで下がって、あまり「厳密ではない方法」で「問題」を解くのか?(Schon 1987)
いやー、まことにアイロニカル。かっこいいね。
ショーンが描き出したかった専門家とは、人々の多くが関心を集める「低地の沼沢地帯」を、ドロドロにはいつくばって、問題と対話しながら、それと格闘する人でした。
ところで、あなたは、高地にいたいですか? それとも沼沢?
僕は「高地に憧れつづける沼沢ドロドロ血」(意味不明)。
▼
今日は、専門職について、思い出しながら、書いてみました。
今日お話しした専門職のイメージは、たぶん、人口に膾炙する「プロフェッショナル」のイメージとは少し異なっているのでは、ないでしょうか。
もしどこかで「プロフェッショナルをめざせ!」という議論にぶちあたったら、これを少し「拠り所」として、いったい何を主張しているのかを考えてみると、よいのかな、とも思います。高度な知識をもて、と言っているのか、はたまた倫理を持てといっているのか、それとも「沼沢」に生きろと言っているのか、それとも、組織とは独立したコミュニティを持て、といっているのか。
オレ様プロフェッショナル論を読み解き、またまた、もはやジャングル化してトグロをまいている「人材育成・プロフェッショナル論」をかきわける、きっかけにはなるかもしれません。
さ、ここで時間切れです。
そろそろ、大学にも、人が来ますね。
そして人生は続く。
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