2012.11.20 08:44/ Jun
最近、気になっていることのひとつに「教えること」があります。といいますのも、ちょっと前にお会いした方から、以下のような質問(というより、質問のようなボヤキ!?)を受けたからなのです。
「研修やセミナーなどで、知識を一方向的に、受講者に「教え」、受講者はそれを「聞く」ってのは、ダメなんですよね?」
一字一句憶えていないのですが、おそらく、こんなような趣旨のご発言ではなかったと記憶しています。「ダメなんですよね?」か・・・深い。
このひと言は「何気ないひと言」ですが、小生、個人的には「衝撃」を受けました。一方で、ある種の「デジャブ感覚」も持ったことを正直に吐露します。
そして、ここには、いろいろなことを考えるヒントが隠されているような気がしました。少なくとも、僕にとっては、そういうひと言でした。
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まず考えたいのは「教える」とは何か?ということです。
おそらく、上記の文章では、「教える」とは「有能な講師が知識を一方向的に受講者に与えること」と考えられているようですが、さて「教える」とはそもそもなんでしょうか? 皆さんは、どう思われますか?
次に、先ほどの文章では「講師が知識を一方向的に受講者に与え、受講者はそれを聞くことが、イコール、ダメなこと」と価値づけられていることです。これに関しては、皆さんのご認識はいかがでしょうか?
▼
今日の日記では、(時間がないので・・・ごめんなさい、このあと会議が続くのです・・・)詳細を述べることはしませんが、僕にとって「教える」とはもう少し広い意味をもっている言葉であるということ(あくまで僕にとってです)、そして、「教えることはダメなんかじゃ全くない」ということを、敢えてチョロチョロと書かせていただこうと思います。
まず前者に関して、かつて(もう今から7年前・・・)、自分がやっていたラーニングバー(Learning bar)の特徴を示すとき、僕は、敢えてこう書きました。これは僕にとって、自分がよいと思える学習のあり方を簡略に図式化したものであり、それはそのまま僕の「教えること」に近いイメージでもあります。
1.聞く
2.考える
3.対話する
4.気づく
ここにはしっかりと「聞く」がまず入っています。
そして、これに、もうひとつくらい加えた感じが、僕の「教える」のイメージに完璧に近づくようなものです。つまり、僕は「教えること」を「相手が理解し、動くこと」を教える、と考えます。
1.聞く
2.考える
3.対話する
4.気づく
↓
5.理解する、動く
そして、僕自身はこうした考えでありますので、「講師が知識を一方向的に受講者に与え、受講者はそれを聞くことが、イコール、ダメなこと」であるとは全く考えません。
「教えること」が必要か不必要か、と問われるならば、「必要」な局面の方が確率的に多いに決まっているし、そうやって、人は知識を継承してきたのだと思います。それが否定される根拠がわかりません。
学習研究の観点からいえば「知識を伝達すること」の対極にある「経験から学ぶ」とはもっともパワフルなコンセプトですが、その効果があらわれるまでの時間は、もっとも長く、かつ、「状況依存」です。
このことは拙著「経験学習論」に書きましたが、「経験とは受苦のこと」です。もちろん人間は「受苦を通し、試行錯誤することでしか、学べないこと」はたくさんあります。しかし、熟練度の低い人に「受苦」を与えても、つぶれるだけです。それは学習者の習熟度に依存します。
それは、ともすれば「魅惑的なコンセプト」として、人々の目に。日本人のメンタリティである「現場礼賛主義」と共振し、「経験から学ぶこと」は「手放し」で、称揚されがちです。
しかし、「状況依存」とは、「時と、人と、場合による」ということです。経営学習論で書きましたとおり、それは「賭け」のイメージなのです。そのことを手放しで「よし」とすることは「効率がもっとも悪いことを覚悟する」「経済合理性は悪いことには、腹をくくっている」ということです。
これに対して「前もって言って教えられるようなこと(情報提供するだけで、相手がさほど苦労せず、先人の方に乗り、パフォーマンスをあげられること)」であり、かつ、「教えられる時間と能力」があるのならば、さっさと教えてしまった方が早い、僕は思います。特に、若いときには、きちんと教えられるべきことは、教えてしまった方がよいでしょう。
もちろん「前もって言って教えられるようなこと=教えられてしまうような内容」だけで、受講者が、「物事の根本から理解すること」、「周囲や他者に影響を与えつつ動くこと」は難しいかもしれません。「経験からしか学べないこと」はたくさんあるのかもしれません。
しかし、それは「必要十分」ではないかもしれないけれど「貴重なリソース」のひとつであります。「先人の肩の上に立ち、さらなる高みをめざすこと」の可能性があるのなら、ニノゴノいうまえに、それをしっかりとするべきだと思います。
「教えることを否定すること」は、とかくロマンティシズムを感じがちですけれども、それは「反知性主義」ともつながることなのではないでしょうか。
この議論、今日のブログを見て、「学び」の研究者、それに長いあいだ関心のある実践者ならば、「歴史は繰り返す」と感じるでしょうね。
古から、ずっと繰り返してきたのです、この議論は。
そして、またもや、繰り返しているのです。
▼
いずれにしても、最近、この「教えること」が気になっています。
どうやら、「ファシリテーション」やら「対話」やらが大切にされすぎて「教えること」の意味が揺らぎ、さらには、「知識を伝えること」がないがしろになされているのではないだろうか、とも思うのです。
最近、よくこんなスローガンを聞きます。
「Teaching からLearningの時代」
なのだそうです。
そのスローガンは、人々のもつ「被教育経験(あまりよろしい思い出として語られない傾向のある経験)」と共振し、時に「学び・学習に対するロマンティシズム」を喚起するのかもしれません。
しかし、それらは二交代立でしょうか?
いえ、そもそも、それらはそれぞれ何を指し示していますか?
「Teaching からLearningの時代」!?
「ホンマカイナ?」、と僕は疑問に思います。
今日の日記は、そんな問題提起でした。
詳細は、また後日させてください。
ふぅ、間に合った。
じゃ、会議に行ってきます。
それでは今日も一日、お元気で!
(学びの研究者、この問題と実践的に長くつきあってきた方は、一見、「二交代立」に見える「学習のコンセプト」のどちらかに肩入れすることには、慎重になるものではないか、と思います。
ある特定の手法が万能で、「Catch all」的にすべての問題を解決する、とは思わないものですし、そういう議論には魅了されません。
いつも言っていることですが、一見、「二交代立図式」に見える二つのコンセプトのかかわりや、連関を考えるのが、「学びのデザイン」で発揮される知性であると僕は思います)
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