2012.2.14 15:26/ Jun
「学びのイメージ」を語る「メタファ」には、これまで、様々なものが提案されてきました。「学び」とは、まことに複雑な現象です。学びを「どのように見なすのか」というパースペクティブによって、それは多種多様にイメージされ、これまで語られてきた歴史があります。
「学びのメタファ論」で最も頻繁に引用されるのは、Sfadさんが提唱したの「AMメタファ(Acquisition Metaphor : 獲得メタファ)とPMメタファ(Participation Metaphor : 参加メタファ)でしょうか。この論文が、雑誌「Educational Researcher」に掲載された頃、僕は、まだ大学院生でした。「ほほー、うまいこといいますなぁ」と感じたことを、思い出します。
Sfard, A. (1998). On two metaphors for learning and the dangers of choosing just one. Educational Researcher. 27(3): 4-13
Sfardさんが、このメタファを提唱した頃 – それは、まだ僕が学生の頃ですけれども – ちょうど、学び研究のパラダイムシフトが起こりつつあるときでした。そんな地殻変動を意識して、Sfardさんは1998年のこの論文において「伝統的な学び概念」を「獲得メタファ(Acquisition Metaphor : AM)」、「新たな学び概念」を「参加メタファ(Participation Metaphor : PM)」の2つにわけて論じました。
「獲得メタファの学び」は、学習を「知識の獲得」とみなします。このメタファにたった場合、知識とは、個人が「所有」するものであり、獲得されるものです。この世界観においては、学習者は「同じ知識で満たされる容器」として考えられます。教師は「容器に知識を満たす源泉」とされました。
一方、「参加メタファの学び」とは、こうした「トラディショナルな世界観」とは、全くことなる世界です。「参加メタファの学び」においては、学習とは「共同体への参加」として把握されます。それは個にとじられたものではなく、むしろ、3次元的な広がりの中で、他者との様々な相互作用においてたちあらわれるものになります。そこでは、知識とは「共同体における実践や談話の形式や活動」に他なりません。
この世界観においいて学習者は「協同的ではあるが独立した個人」であり、教師は「知的リソースへのアクセスビリティを確保するもの」あるいは「共同体内における先達」と把握されます。
まぁ、ここまでのややこしい話を単純にすると、「獲得メタファの学び」は「容器に知識をどんぶらこどんぶらこを注ぐイメージ」、「参加メタファの学び」とは「共同体にずんずんと突き進んでいって、いつのまにか古株メンバーになっちゃうイメージ」でしょうかね。それぞれ、そういうイメージを「学び」と見なしますよ、ということで議論が進んでいました。
ちなみに、Sfard(1998)の論文は、「現在、学び研究には、こうした二つのメタファが存在しているけど、これって、あれか、それかじゃないよね。排他的に考えるって危険じゃね?」と問題提起する論文なのですが、残念なことに、この二つのイメージが、あまりにも鮮烈で、定着してしまい、本論とは異なる読み方をされる傾向があったことは付記しておきます。
その後も、「学びのメタファ」は、様々に語られました。
「リゾーム」だの、「結び目」だの、何だのかんだの。
去年あたりから、僕が、ひそかに心に惹かれているのは、「祭り」のイメージです。日本人の肌感覚にあうような「新たな学びのイメージ」として「祭り」というのは、どうなんだろうか? と。
敢えて、デュルケームを持ち出すまでもなく、近代以前の「祭り」とは、日常の経済活動を成立させるために、敢えて構築されたものでした。それは「日常を反転させる世界」として描かれ、そこで人々は集い、愉しみ、ともに過ごし、また日常にかえっていくのでした。
祭りの最中には、日常世界を支配するポジションは無化されます。参加者間の権力関係はフラットになり、かつ、場合によっては倒置されます。
ふだんは、別々のところで経済活動を営んでいる人々が、同時多発的に、いろいろな場所から集まってきて、様々な人々がかかわり、祭りという出来事を共同的に構成していきます。
もし「学び」を「祭りのメタファ」で語るという暴挙?、というか、妄想?、代迷いごと?が許されるのだとしたら、知識とは「参加者が生み出すもの」になりますね。近代以前の祭りに関しては、「演じるもの」と「観るもの」という二分法は存在しません。同様に、もはや、祭りをメタファとした学びにちっては、学習者と教育者という二つのポジションは存在しません。すべての人々が祭りをつくりあげていく主体なのです。
実は、僕が、この妄想をいだきはじめたのは、オックスフォード大学で文化人類学のPh.Dをおとりになった市瀬博樹さんに、ある組織開発の現場の写真を見せてもらったときでした。
それは、ある病院の事例だったのですけれども、そこでは、看護師の皆さんが、自分たちの
「お祭り」を、自分たちでつくりあげ、その中で、日々の仕事を振り返り、社会的連帯を強めているように、僕には見えました。
まことに恐縮ですが、動物的直感的で、僕は、ここで起こっていることは、どうも「容器メタファ」ではないし、「共同体」メタファではないな、と思いました。
看護士さんの世界は、超「売り手市場」で、入れ替わりが激しい。そこで生まれた社会集団は「共同体」というのにはタイトすぎる。しかし、それでいて、ある擬似的民主的な関係がそこに存在し、皆で何かをつくりあげている。そして、非日常を経験した人々は、日常に経済的活動にかえっていく。これは「祭り」に近いのではないか、と。
このメタファは、sfardがいうように、「あれか、これか」ではないような気もします。他のメタファを否定するのではなく、むしろ、それに接続するようなあり方があってもいいのかな、とも思うのです。
その後、人文社会科学で昨今語られているというカーニヴァル論や、社会動態論などを読みました。でも、僕が、ある組織開発の事例で得た直感は、どうも「カーニヴァル」というよりは、「祭り」に近いな、と思いました。そこまで日常を倒錯していないな、と。
というわけで、また妄想を人前でしゃべってしまいました。でも、いつかどこかで、きっとこの問題は、しっかりと考えておきたいと思っています。
仕事に戻るアルよ。
ほな、皆さん、ご機嫌よう。
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