2011.11.21 10:49/ Jun
今日は、ひとつの寓話(ストーリー)から、「学習手法の普及プロセス」について考えてみたいと思います。もし興味をもってくださったなら、気楽に、読んでください。
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今、仮に、革新的な学習手法で「A」という学習手法があるとします。もし、イメージがつかなかったら、何か「ワークショップの手法」を思い浮かべてください、はっきりいって、何でもいいです。
「ある一定の手続きに従って、学習を組織化しようとするもの」を、ここでは、ゆるく「学習手法」と考えてみましょうか。
Aという学習手法は、「真空」から生まれ出たものではありません。Aは、「Bという学習理論」に出自をもち、Aを心底から理解するためには、「B」を理解しなくてはならない、とします。
今、仮にAとB、すなわち、「学習理論と学習手法の関係性」を深く理解している創始者Cが、「理論を裏打ちとした社会的実践の構築」に熱意と善意をもち、Aを実践をしはじめたとします。ここで創始者Cは、「善意と熱意をもった第三者」であるとします。話を単純化するために。
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創始者Cは、自分が「A」の実践者であることに誇りをもっています。
くどいようですが、創始者Cは「善意」の持ち主です。「私利私欲」からではなく、心から「A」の社会的普及を願っており、Aを多くの人々に試して欲しい、実践して欲しい、と願っています。
間違っても、Aをもって短期的な利益回収を目指そうとは思っていません。創始者Cは、社会的利益を優先する「善意の持ち主」なのです。
実際、創始者Cの元には、Cの理論・実践・熱意・善意に、興味関心をもつ人々D(アーリーアダプター)が集まってきており、DたちがAを実践しようとします。
創設者Cは、そのことを非常に嬉しく思います。残念ですが、Dたちは、「理論と実践の関係性」は、創始者Cほどには理解していません。Dたちは創始者ではありませんので、それもやむをえないことです。しかし、Dたちは創始者Cと同等の熱意は有しているものとします。
しかし、このあたりからズレが生じます。
ここで、今仮に、「Dたちが実践するA」は、「Cの行うA」とは、少し「クオリティが落ちるもの」だとします。アーリーアダプターのDたちは、創始者Cではありません。よって、創始者Cほどには、学習手法Aを使いこなせないのです。
今仮に、アーリーアダプターDたちの行う学習手法を「A’」としましょう。
ただし、「AとA’のあいだのクオリティの低下」は、問題になるほどのことはない、とします。
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創始者Cは「A」を実践し、Dたちは「A’」を実践します。
Dたちは複数人から構成されています。よってDたちの方が人数が多いので、当然ながら、「Aの実践回数」よりも、「A”の実践回数」の方が多くなります。
ところで、「Aという学習手法」は、もともと、非常に革新的でいて、シンプルで、さらに多くの人々を魅了していきます。
ですので、AやDの実践をみた様々な人ーここではレイトマジョリティEとしますーが生まれます。
実践Aは、レイトマジョリティEたちによって、様々に模倣され、実践が蓄積しています。
創始者CとDたちは、このことを、非常に嬉しく思っています。ようやく、自分の考える学習手法が、広まり始めた、と考えるのです。
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さて、先ほど、「Aを見て模倣した人々」の行う実践(学習手法)は、「A’」としました。これを敷衍して考えると、「A’を見て模倣した人々レイトマジョリティEたち」の行う実践は、「A”」だとします。
あとには、この連鎖が続きます。
「A”」を見て模倣した人々の行う実践は、「A”’」です。「A”’」を見て模倣した人々の行う実践は、「A””」です。このように、アポストロフィーの数は、どんどんと増えていきます。
しかし、一方で「理論と実践の関係性」「理論を社会的実践として立ち上げようとするパッション」そして、「学習手法としてのクオリティ」は、「Aのアポストロフィーの数」が増加するに従って、徐々に「減衰」していくものとします。
本当は、このプロセスは複雑なのですが、今は次元を「一次元」にして、ものを考えましょう。人を媒介するに従って、どんどんと学習手法Aのクオリティは「下がっていくもの」とします。
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さて、この段にいたって、創始者Cは、だんだんと「マズイ事態」になってきたな、と思いはじめています。
創始者Cの目から見れば、近しい実践者Dらが実践する「A’」は「問題のないレベル」でした。Eたちが実践する「A”」は「許せるレベル」かとも思います。
しかしそこから派生する「A””」は「やや問題があるレベル」のように感じます。
「A””’」を見ると、まるで自分の考えた実践Aとは「別物」のように感じます。
「A””’」には、すでに学習理論Bとの関連は全く失われています。正直、「A””’」と「A」は同じ学習手法というにはおこがましい、「似てもにつかぬもの」です。
しかし、悲しいかな、創始者Cには、もう、この「アポストロフィーの増加=すなわち、学習手法の普及の連鎖」をとめる手段は、ありません。
なぜなら、Aが「革新的」で「魅力的」で、かつ、「シンプル」でいて「模倣可能性の高い手法」だからです。つまりAが「手法」として「洗練されたもの」だからなのです。
「手続き」としてはシンプルで、誰もが行えます。また、「行うこと」が、許されているものだからです。
かくして、「A””」も「A””’」も「A”””」も、すべて「A」という同じラベルで流通しています。
Aが、革新的でシンプルな手法であったが故に、そのバイラルはとめどもなく広がります。次第に、創始者Cは、「A」という革新的手法の創始者として、人々に、祭り上げられています。創始者Cが意図しようとしまいとに関わらず、この「祭り上げ」は進行します。
創始者Cは、この「祭り」から「降りること」はできません。
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そうこうしているうちに、ある日、とうとう、臨界点(クリティカルポイント)がやってきます。憂慮していた出来事が、連鎖するのです。
あまりにクオリティの低い「A”””」を体験した人々F(マジョリティ)から、
「Aって流行っているけれど、ありゃ、ダメだね、惨い時間を過ごすことになっちゃったよ」
という声があがりはじめます。
実際、マジョリティのFたちが体験したのは「A”””」であり「A」ではありません。しかし、ついに、その声は創始者Cの耳にも届くようになりました。
「Cさん、あんたの考えたという、A”””って、あれ、キツイなぁ。こないだエライ目にあっちゃったよ」
「創始者C」は、「A”””」は「A」ではないことを叫びます。
しかし、いくら叫んでも、そのことは伝わりません。なぜなら「A”””」と「A」は同じラヴェルで認識され、実践されているからです。
一般のFたちには、学習のサプライヤー側の、細かい違い・細かい事情は、受け手には伝わりません。
かくして、
「ところで、A”””を考えたCって、どんな人?」
話題は「A”””」のみならず、それを創始した「C」のレピュテーションにも及びます。
嗚呼、こうしている間にも、バイラルは広がっていきます。Aがシンプルで模倣可能性が高く、かつ、革新的であるが故に、このバイラルはとめられません。
実践の連鎖は、もう「A””””””’」くらいになったでしょうか。かくしてクオリティは地に落ちました。Aという学習手法で生み出される学びの時間は、ひと言でいうと、「あまりに惨い時間」になってしまいました。
さらに手痛いことに、アーリーアダプターのDたちから、こんな声もでてきました。
「実践Aをつくった創始者Cさん、最近、元気ないねぇ・・・もうオワコンなのかなぁ・・・」
「実践Aも、昔はよかったんだけどね。創始者Cさん、これから、どうするんだろうな・・・・そういえば、全然話が変わるんだけど、新しいQという手法って、最近、流行ってるけど、知ってる?あれ、面白いよねぇ。今度、みんなで勉強会してみようか。で、使ってみようよ」
そして、創始者Cだけが、独り残されます。
「ああ、こんなはずじゃなかったのに」
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電車の中で、ぼんやりと、「学習手法」「学習理論」「普及」のディレンマについて考えていました。
革新的な学習手法Aが、シンプルで、模倣可能性が高いが故に、「惨いA」「痛いA」が量産され、消費され、最後は消失していく。学習手法が「洗練」されていればいるほど、「惨い学びの時間」が生み出されていく、そのプロセスを、「思い切り極端にストーリー」にして、描いてみました。 僕は「普及」についてはドシロウトなので、適当なのですが(笑)。
さて、これを防止するためには、どのような方策があり得るのでしょうか?
「誰」が「何」をすれば、学習手法はクオリティを保ちつつ、広がっていくのでしょうか。
すぐに誰もが思いつくのは「資格化」? 「サティフィケーション」?
でも、創始者Cは、そういうの、苦手な人かもね(笑)
ひるがえって、そもそも「普及」とは何なのでしょうか?
「手法」を「全く同じかたち」で「実践する人」を「量産」することが、めざすべき「普及」なのでしょうか?
あなたは、何をもって「普及」とみなしますか?
「エンドレスな問い」は、今日も、広がります。
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■2011/11/21 Twitter
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