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2011.11.20 10:47/ Jun

学会とは何か?、その存在意義とは何か? : 学会員の減少がはじまっている!?

 先日、あるところで、「一部の学会では、学会員の減少に歯止めがきかない」というお話しを伺いました。小さな学会の話ではありません。具体名を出すことは差し控えますが、由緒ある伝統的な学会で、その領域の研究者ならば、誰もが知っているような学会のお話です。しかも、それが個別の学会だけの話じゃない。ひとつの学会が「つまらなくなって」、人がいなくなっているのではなく、いくつもの巨大学会から、学会員が減少する現象が現れているのだそうです。
 僕の専門領域では、たぶん、そのような現象がまだ現れていません。むしろ、学会員は大幅増加傾向ですので、少し驚きました。
 「学会員減少」が止まらない領域の関係者にとっては、「今さら、何をいってんだか、そんなもん、数年前からそうだよ」という話になるのでしょうけれども、違う領域も多々あります。
 ともかく、事態の詳細はよく知らないです。が、話を要約し、ひと言で申しますと、「学会に、存在意義を見いだせず、やめる人が増えている」とのことらしいです。で、急遽、学会内部で、様々な対策を試みているところもあるようです。
  ▼
 下記は私見であり、あくまで僕の専門分野に限定しての話が中心になるとは思いますが、一般に、学会が果たしている社会的機能とは、下記のとおりかと思います。
1.研究者同士のつながり、社会的相互作用の維持
2.研究知見を実務への普及促進
3.ピアレビューを通した論文査読と成果公開
 他にもたくさんあるんでしょうが、もう少しで、TAKUZOをプール教室まで「迎え」にいかなくてはならないので、このあたりで(笑)。
 いずれにしても、この3つのような機能を維持するため、学会では、研究者同士が、ほとんどの場合、ボランティアベースで活動していますね。そうした一連の活動を通して、「公共性に資すること」が、学会の社会的役割なのかな、とも思います。
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 ただ、これらに「陰り」が見え始めている。
 これらの活動に意味を見いだせない人が増えて、学会を去ることを選択する人が増えているとのことです。もちろん、研究をやめるわけではありません。学会を辞めるのです。ご存じのように、科学技術に対する国の予算は、ここ10年で大幅に改善されました。研究活動をする人も増えています。それなのに、学会から人がいなくなる。
 例えば、1の場合、昔は学会・研究会にいかなければ、他の研究者には会う機会が制限されていました。ところが、今は、研究者の移動も激しくなっています(この背後には科学技術予算の増加、科研などでの経費執行の柔軟化、などがあると思います)。あるいは、実際にあわなくても、スカイプやら、Twitterやら、facebookで日常的に交流しあっている。
 大学間の交流やコラボレーションも昔とは雲泥の差です。
 昔は、別の大学の主催している自主研究会とかに、自分の指導する学生が行くと、怒り狂う教員がたまにいました。「よその大学の人間と、仲良くするんじゃない」と(笑)。これは極端な例かもしれませんが、昔は大学間の交流は、暗黙のうちに制限があったように思います。
 でも、今は、教員のあずかり知らないところで、学生たちが、気の置ける人と様々に交流しあっています。少なくとも僕の研究室はそうです。もちろん、それを制限することは一切しません。どうせ、制限しても、「闇に潜るだけ」ですから(笑)。
 大学間のコラボレーションも増えてきました。大学間で、複数の研究者が、ダイナミックにコラボレーションして、ひとつの共同研究を行う場合も、昔と比べて格段に増えています。「あ、Aさん、今度はBさんとやるんだ」、と。「あ、Bさんは今度はCさんとプロジェクトやるんだ」と。コラボレーションのクラスタは、ダイナミックに変化していきます。
 論文も公開されている場合もあるし、CiNiiやら、Google scholarやら、各大学が整備しているレポジトリで入手できる。まだまだ十分とは言えませんが、昔は、情報をとるために、学会に行ったのです。でも、今は、わざわざ学会や研究会にいかなくても、ある程度の情報ならば、Webにある状態なのですね。場合によっては、映像もある。講演や発表も、ものによっては、Twitterのバックチャネルが存在している場合もある。
 2の場合、少なくとも僕の研究領域では、学会でオーソライズされないと、実務の人が集められない、普及振興ができないということはありません。
 むしろ、ソーシャルメディアの普及で、志ある実務家と志ある研究者は「ダイレクト」でつながり、両者で面白い場をつくることができるようになっています。
 むしろ、学会として実務の方々と連携する、という場合、学会によっては、意志決定が重かったり、政治が働いていたりする場合もないわけではないかもしれません。
 もし仮にそうなのだとすると、様々なかたちで承認やらオーソライズを受けなくてはならない「学会の内部」で承認をとりつけ、その上で実務家の方々を集まっていただく方が、様々な制約を受ける可能性がでてくる可能性がありますね。
 「最後の砦」であるピアレビューは、まさに、学会の「肝」ですね。
 学会は、質の高い研究成果をオーソライズし、パブリッシュしていくことを担っています。そして、このパブリッシュこそが、研究者の採用・雇用といった人材マネジメントに活かされている。つまり、研究者の雇用のめやす(分野によっても違うでしょう)、学会論文のパブリッシュの程度が連動しているのです。
 しかし、ここも2つのリスクが生まれ初めてきていると思います。僕は査読を統括する立場にはないので(査読数は半端なく多いと思います)、何ともいえないですが、外から見ていて、下記のようなことを感じます。
 ひとつめのリスクは「査読システムのエコシステムの危機」です。
 これまでは、学会の中心的な活動を行っている研究者が、ボランティアベースで、相互にレビューを行い、査読は運営されてきました。つまり、「今回査読をするから、今度はしてね」というかたちで、そこはボランティアベースの「持ちつ持たれつ」だった。
 しかし、最近は、学会の1と2の魅力が失われたがために、「学会活動には協力しない」のに「論文を投稿する人」が増えている。つまり、これまで維持されてきた「もちつ、もたれつのエコシステム」が機能しなくなりつつ可能性があるということです。査読の負荷が一部の研究者にかかり、年がら年中、査読をしているような状況になる。一時期、僕は、複数の学会からの査読数をたしたら、2桁にいったことがありました(今はありません)。
 1と2が魅力がうしなわれるのだとしたら、どのようにして、ピアレビューの仕組みを回していくのか、これが課題になるかもしれません。
 ふたつめのリスクは、「研究の国際化が進む中で、日本語の論文が、どの程度、業績として反映されるのか」ということです。
 今までは、研究者の業績評価基準には「日本語で書かれた論文」でも「英語で書かれた論文」でも認められていました。理系では、もう圧倒的に後者しかない分野もあるのでしょうけど、少なくとも人文系では、前者の価値も十分に認められていました。
 しかし、今後の、研究者の、初期キャリア時の採用を考えると、大学によっては、「業績に英語論文があること」をかかげるようなところも出始めてくるような気がします。もっとも「今頃、そんなことぬかしてんじゃねー、そんなもん、すでにそうだよ」という声もたくさんでてきそうだけれども(笑)。
(ちなみに、何でもかんでも、グローバルであること、グローバルに流通することが、僕は、”よい”ことだとは思いません。学問分野によっては、そもそも海外で流通することにあまり意味をもたない分野、流通しにくい分野もあります。分野によっては、グローバルに発表するよりは、国内の問題解決に資する、という分野もあります。学問は多種多様ですね。大学でいろいろな先生とお会いして、いつも、そう思います)
 もし、そうなると「今すぐに」ということはないでしょうけど、徐々に日本語の論文投稿の価値の相対的下落が起きてくる可能性もゼロではないでしょう。日本の学会に投稿するのなら、海外の雑誌に最初から投稿してしまう、ということです。
 もし仮にそれが進行してしまうと、1と2と3に陰りがみられることになります。つまり・・・学会のレゾンデートルが、すべて揺らぐのですね。
 うーん、難問だらけですね。
  ▼
 けだし、学会とは「公共性の高い場」だと思います。それは、研究者のために存在している側面と、公共財としての科学技術を振興するために存在している側面があるのだと思います。 
 もちろん、時代に応じて、かたちは変わるのでしょうが、何とかして、この機能を維持・継続していった方がいいように、僕は、思います。
 しかし、もし上記1と2と3が揺らぎはじめているのだとしたら、学会が今のままで存在し得ることは難しいのかもしれません。事実、僕の同世代の研究者の間では、「学会をやめる人が増えている」のは事実です。
 学会のメリットとは何か? 学会のデメリットとは何か?
 学会とは何か?
 そして、学会のレゾンデートル(存在意義)とは何か?
 そして、あなたは学会とどのように向き合うのか?
 もし、学会の果たしてきた役割に陰りがみえはじめているようならば、そろそろ真面目に考えるべきときなのかもしれません。また、研究者個人として考えるのであれば、学会との向き合い方を、一度、自省してみることも、意味あることのように思います。
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■2011/11/19 Twitter

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