2010.10.13 12:54/ Jun
10月・・・後期授業がはじまり、またセンターの仕事も「今年の第二幕」がはじまり、だんだんと忙しくなってきました。嗚呼、全学の教育課題・・・・あまりの複雑さに、頭がクラクラしてきます。駒場行ったり、本郷行ったり、教室行ったり、会議室行ったり。なかなかハードな日々が続いています。
で、暇を見つけては、ここ最近、原稿を書きまくっております。先日、論文を一本投稿しました。とりあえず、ホッとしています。
もうひとつ、今、執筆・編集中なのが、俗称「ラーニングバー」本です。仮題は「知がめぐり、人がつながる場のデザイン」ということになっております。この本は、一言でいうと、「学びの場づくり」について書いている本です。英治出版から出版の予定で、杉崎さん、秋山さんたちと仕事をしています。
ラーニングバー本といっても、単に「ラーニングバーのクックブック」を書いても面白くないので、そこに一癖、二癖、味付けをしました。下記に「プロローグ」を公開します。こちら、お読み頂ければ、何となく雰囲気がおわかりいただけるか、と思います。
ぜひお楽しみに!
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■プロローグ
人に何かを語りかけようとするとき、「何」を、どのような「視点」から、「誰」に向かって語るのかを、明示しておくことは、非常に重要なことです。
僕は「何」を語るのか?
僕は「何者」なのか?
そして、僕は「誰」に対して語りかけているのか?
僕はこれを明らかにしながら、本書を書き記したいと願います。「内容」と「視点」と「宛先」を抜きにした語りは、結局、「中空」に漂い、誰の「耳」にも届かぬことが、ままあるからです。本書においても、まず、それを位置づけることから、話をはじめましょう。
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まず「内容」です。
本書で、僕は、Learning bar(ラーニングバー)という、組織を超えた「学びの場づくり」について語りたいと思います。
いまや、募集人数200名にたいして800名を超える人々が参加申し込みを行ってくれる場にまで成長したラーニングバー。参加希望者の「数」が重要なわけではないですが、確かに、ラーニングバーは、以前よりも、多くの社会的期待をいただけるようになってきました。
その「学びの場」が、なぜ生まれたのか、そして、どのように、僕はそれを創っているのか。現在、どのような新たな「課題」と「葛藤」が生まれているのかについて、お話ししようと思います。それは、ラーニングバーの生成と葛藤の「ストーリー」です。
しかし、「ラーニングバーについて語ること」は、「ラーニングバー以上のものを語ること」だということに、僕は、気づかぬわけにはいきません。
つまり、ラーニングバーを語ることは、僕という人間の仕事のあり方、僕が発信している各種の情報、僕と一緒に仕事をなす人々との関係の「維持」と「変化」について、語らざるを得ないことと同義なのです。
ラーニングバー、そして、それにかかわる様々な人々、そして僕の仕事との関係・・・そういった全体を俯瞰するため、本書では、「学びの生態系」というコンセプトを持ち出します。
一言でいいますと、ラーニングバーをデザインすることで、「自分のあり方」を変え、さらには僕につながる他者と僕の関係を変え、そこに「学びの生態系」として把握できるような、「フラジャイルな系」が、生まれ始めたということです。
別の言い方をすれば、「人々に気づきをもたらすイベント」をつくりだすことは、結局、自分自身、さらには自分と人々との関係を「編み直す」ことにつながったということです。
本書では、僕の現在につながる一連の出来事をストーリーのかたちで語っていきたいと思います。
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次に、どのような「視点」で語るか、ということです。
僕は、この本を、「ラーニングプロデューサー」の立場から語ります。「ラーニングプロデューサ」という言葉は、僕の造語ですので、これには少し説明がいるでしょう。さしずめ、ここでは「ラーニングプロデューサー」を、「学びの場を仕掛ける人」くらいに把握してください。
僕は、ふだん、大学で、教育企画の仕事をしたり、大学院教育・研究にあたっている「プロフェッサー」のひとりです(准教授だから正確にいえば、アソシエイトプロフェッサーだよ、という細かいツッコミはなし)。
自分の専門は学習支援学、組織行動論と考えています。主に、「企業・組織で働く人々の学習・コミュニケーション・リーダーシップのあり方」について研究をしており、自分の研究室のキャッチコピーは「大人の学びを科学する」としています。
しかし、本書においてラーニングバーを語るとき、僕の語りは、「ラーニングプロデューサ」のそれに、敢えてこだわることにします。すなわち、学びの場をつくる一人の人間として、それを「仕掛ける人間」の一人として、それを、どのようにデザインしているのか、ということを、経験的に語ってみたいと思うのです。
もちろん、そうはいっても、僕の語りの中から、「プロフェッサーとしての語り」を完全に排除することは、「夢想」に過ぎないこともまた事実です。むしろ「プロデューサとしての語り」に徹することを宣言しつつも、時折、「プロフェッサーとしての語り」が混じってしまう、この「役割の二重性」にこそ、ラーニングバーの「起源」があるような気がしてなりません。
今、僕は「プロデューサとしての自己像」を「消極的な選択」として選び取っているわけではありません。
むしろ、「プロデューサとしての役割」と、「プロフェッサーとしての役割」をあわせもつ、バルネラビリティが高く、それぞれの世界からは「異質なもの」というラベルを打たれがちな「何者か」として生きることを「積極的に選択すること」に、僕の「今」があるような気がしています(明日があるかは知りません!)。
本書で展開される一連のストーリーは、そんな「プロデューサー」と「プロフェッサー」と「狭間」で生まれた物語です。
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最後に、「誰」に対してこれを語るか、です。
それは一言でいうならば、「学ぶことを愛する(Love of Learning)」すべての人々でしょう。とりわけ、自ら「学ぶ場」をつくりたいと願う、志ある人々に、僕は語りかけたいと願うのです。
自ら学ぶことを創りたい人は、多くの場合、学ぶことを愛している人です。そして、他者が学ぶ光景を見ることを愛しているのではないでしょうか。そうした人々が、学ぶ場を自ら創り出すこととは、いったい、どういう意味をもっているのかを、僕はそういう人々に対して語りたいのです。
学ぶことを愛する人々は、実務の現場にもいらっしゃるかもしれませんし、僕と同じような学習研究者の中にもいるかもしれません。自分自身は学習研究をしているけれど、「学ぶこと」を愛せない学習研究者もいます。他人には学びを強制するくせに、全く、自らは学べない実務家も存在します。
しかし、僕は本書を通して「学ぶことを愛する人」に語りかけようと思うのです。実務家であろうと、研究者であろうと、僕はいっこうにかまいません。僕は、そういう「志」をもった方に語りかけたいのです。
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僕は「何」を語るのか?
僕は「何者」なのか?
そして、僕は「誰」に対して語りかけているのか?
冒頭にかかげたこの3つの問いに対する、僕の「答え」はまとまりました。
本書において、僕は「ラーニングバー」と「ラーニングバーを超える何か」について、「ラーニングプロデューサ」の立場から、「学ぶことを愛するすべての人々」に語りかけようと願うのです。
本書における僕の語りが、「学ぶことを愛するすべての人々」のインサイトに、少しでも寄与しますように。そして、僕自身が、この機会を通じて、よりよく学べますように。
そして、果てしなく液状化する、この世の中に、「ラーニングプロデューサ」を名乗る人々が、ますます増えることを、僕は、心から願っています。果てしない脱構築が繰り返されるこの社会において、そうした「ラーニングプロデューサ」のつくりだす「学びの生態系」が、静かに、だが、確実にゆっくりと広がることを、静かに祈るのです。
2010年10月1日
中原 淳
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