2010.9.10 09:43/ Jun
先日、同僚の水越伸さんの「メディアビオトープ」を読みなおす機会があり(この本は現代のメディア環境を考える上で素晴らしい枠組みを提供してくれる本だと思います)、それがきっかけで、杉山恵一さんの一連の著作を読みなおす機会に恵まれました。
杉山恵一さん(元静岡大学教授)は、ビオトープ研究の第一人者で、自らもビオトープをつくり、自然環境の再生・復元につくされてきた方です。
ビオトープとは、Bio(生命)とTopos(場所)の合成語で、「生命が生息する場所」を意味します。失われゆく自然環境を復元するために、人工的にビオトープをつくり、それらをつなげることが注目されています。
その研究の第一人者の杉山先生は言います。
少し長いですが、非常に示唆にとむので、下記に引用しましょう。
—
自然を復元するというのは非常に困難なのです。結論的にいうと、人間にできることは自然環境の条件を整える事であとは自然に任せるしかない。(中略)
私が主にやってきたのは、生態系を豊富にするような物理的構造物を復元させようと、ビオトープ作りをやってきました。その中に、「ニッチェ」という考え方があって、本来の自然には「あな」や「すきま」のある構造物が豊富にあったのです。
(中略)
昭和30年代のまでの伝統的な農村では、かやぶき屋根の萱の中に「あな」や「すきま」があったし、家事態が出入り可能な空間で、周りは石垣で、河には蛇籠や杭があった。「多孔質な構造物」が非常に多かったんです。
それが急激に変わって「貧孔質」というか「無孔質」になった。文明は「多孔質」を「無孔質」にするというはっきりとした特徴があるのですね。
(中略)
Bio(生命)とTopos(場所)の合成語であるBiotope(ビオトープ)は文字通り生命が生息する場所。ビオトープをつくる際に、まず重要なのは、環境の物理的構造を多様化させること。そのためには地形は平坦ではなく起伏に富んでいる方がいい。起伏によって、温度・湿度・明るさなどが異なる様々な微環境がつくられ、多様な種の生息が可能になるからである。
そして「水系」を必ずつくること。水辺はあらゆる動植物にとって、まさに生命を育む場所である。
—
「あな」「すきま」といった「多孔質の空間」、そして「多様性が確保されていること」、さらには「水系が存在する事」・・・多様な種が存在し、生きるために必要なそれらの要因は、近代化の果てに、少しずつ失われていきます。
通りはコンクリートやアスファルトによって敷き詰められ、河岸には堤防ができ、「多孔質の空間」が、「無孔質」「貧孔質」になっていくのです。やがて、「種」は均質化し、そして、失われていきます。
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思うに、杉山先生のビオトープ論は、私たち「大人の学習環境」を考える上でも、非常に示唆に富むメタファだなと思いました。
水越伸さんは、その見識と先見によって今から5年前に「メディアビオトープ」を著し、硬直化するメディア環境を再生するためのメタファとして「ビオトープ」を援用したのですが、同様の思考実験を「組織学習論」にも試みてみる、ということです。
つまり、私たちがよりよく学び、よりよく生きていくためには、組織、組織間、組織外に、どのようなビオトープが必要なのか? どのような「あな」や「すきま」や「水系」や「多様性」が必要なのかを考えてみるということです。
もし、この思考実験に同意できるのであれば、私たちにとっての「あな」「すきま」とは何か? 水系とは何か? 多様性とは何か?という問いについて具体的に考えていくことが求められます。
そして、ともすれば「無孔質」「貧孔質」になりがちな私たちの生活圏をいかに「多孔質の空間」に再編成するかが問題になるか、と思うのです。
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近代化、あるいは、組織化(組織として均質に体をなすということ)は、無駄、失敗を許容する空間をなくしていくプロセスでもあります。あらゆるものがルーチンに落とされ、ドキュメントに体制化されます。それが「組織が学習する」、つまりは「組織学習」ということだと思います。このことは、福島真人さんの近著の中で、ベッカーの「組織化と学習」の間のディレンマとして紹介されています。
もちろん、経営の立場から見れば、激烈なる競争環境に置かれている現代の組織において「組織学習」は不可欠です。あらゆるものが無秩序で、手続きが決まっておらず、ルーチン化していない状態というのは、生産性が悪く、さらに、組織内で生まれた知識が世代継承されにくいことを意味しています。
しかし、ここにこそ、最大のジレンマがあります。
組織学習が進めばすすむほど、つまりは、あらゆるものごとに「手続き」や「ルーチン」が生まれ、それが組織に蓄積していけばいくほど、今度は「個人の学習」 – ここでは「個人の創造」といってもいいかもしれませんが – 可能にする「すきま」や「あな」は失われていくのです。
長期的な視野にたてば、「組織学習」された内容は、いつしか必ず陳腐化します。つまりは、いつかは新たに「個人の学習」が進み、それが新たな「組織学習」につながらなければならない。現在の個人の学習が進まぬことは、「将来の組織学習」に至らぬことと同義なのです。ということは、それが失われた場合、組織はいずれ「硬直化」の方向に向かいます。
しかし、かといって、学習や創造をそのままにしておくわけにはどうしてもいきません。組織が組織として体をなし、生産性をあげ、さらには個人の雇用(個人の創造を可能にするような基盤)を確保するには、どうしても、組織学習をすすめることが必要になります。
つまり、マネジリアルな示唆としては、下記のようなパラドキシカルな示唆 – 煮え切らないアンチマネジリアルな示唆 – を私たちは受け入れざるをえません。
それは、 私たちは、片手で「組織学習」を進める一方で、もう片手では、その内容とは逆行するような「組織学習された物事をUnlearnすること」を求められている、ということです。
「砂場の城づくり」の比喩で喩えるのであれば、「片手で砂の城をつくり、片手で、その城を壊すこと」に似ています。その比喩から、わたしたちは、ワイクのいうような組織化(Organizing)のプロセスを想起します。
ビオトープ論に援用するならば、それはあたかも、アスファルト化・コンクリート化される環境に対して、ビオトープづくりとそのネットワーク化を進めることにも似ています。
それをどのように異なる役割分担するのか、あるいは、どのようなプロセスによってその適切なタイミングを区切るのか、それが最大のアポリアになるのかな、とも思うのです。
あなたの生活環境に「あな」や「すきま」はありますか?
あなたにとっての「水系」は何ですか?
あなたの組織に、多様性はありますか?
そして、あなたはビオトープに生きていますか?
追伸.
まだきちんと、言語化できていないのですが、最近、このビオトープ論、エンゲストロームの活動理論、ベッカーのディレンマ、そしてヘドバーグのアンラーニング理論、マーチらの組織学習論ワイクの組織化の議論が、結局、同じようなことをいっているような気がしてなりません。まだ言葉にはなりませんが・・・最近、どうも、超絶的妄想にふけっています。
追伸2.
よーく考えてみれば、僕の最初の研究では「教室環境における<すみっこ>」の問題を扱っていました。すみっこ、すきま、あな・・・。今から10年以上も前の話ですが、どうやら、小生、そういうものが好きなようです。
そして人生は続く。
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