2010.9.1 08:31/ Jun
昨日は「NHKクローズアップ現代」でTwitterの特集だったようですね。残念ながら僕はTAKUZOと遊んでいたため(トミカの本を読んでいた)、見ることはできなかったのですが(笑)、どんな番組だったのでしょうか。また、どなたか教えてくださいね。
それにしても、僕を含めて、Twitterをやる人は「Twitterについて語ること」「Twitterについて語られること」が好きですね。これだけ自己言及的で、自己陶酔的なオルタナティブメディアも、あまり例を知りません。
Twitterをやる人は、Twitterを語ること、Twitterを語られること、Twitterを語り直されることで、いったい、何を「確認」し、どのような「意味付与」「アイデンティティ形成」をしているのでしょうか。
このあたり、研究として、非常に面白そうですよね。
思うに、Twitterを、きちんとした人文社会科学のコンテキストから論じた骨太の研究って、あまり目にした事はありません(僕は専門ではないので詳しくはないですが)。
どなたか、ぜひ、あなたの研究にいかがですか?
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ところで、ちょっと理由があって、「Twitterをやることとは、一体、僕にとってどのようなことなのか」を考えています。
「そんなの、バカ、つぶやきに決まってるんだろ」
と言われそうですが、僕が言いたいことは、そういうことじゃありませんよ(笑)。
そうじゃなくて、「他ならぬ僕にとって、Twitterをやることは、どういう社会的意味をもっているか」ということです。できれば、これを考えるための思考の手がかりとして、下記に示すような「メタファ」をつくりたい。
つまり、
僕にとって、Twitterとは「 」のようなものである
なぜなら「 」のようなものだからだ
というようなメタファを完成したいのです。
ここで押さえるべきは、このメタファは「僕にとって」というところです。「一般」について語ることは、敢えて志向しません。それはそれぞれの方が、それぞれにやってください。
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いよいよ問題設定が終わったところで、本論です。大学院入試期間なので、あまり時間がありませんので(笑)、思い切り、はしょりますけれど。
一言でいえば、他ならぬ「僕」にとっての「Twitter」とは、結局、「縁側」のようなものなのかな、と思いました(笑)。先ほどの文章を活用して、一言でいってしまえば、こういうことです。
僕にとって、Twitterとは「縁側」のようなものである
なぜなら、僕の研究や社会的活動に興味関心のある人たち、志のある人たちが、ぶらりとのぞき、立ち寄り、時には出会う場であることを願っているから
以下、それを説明しましょう。
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「縁側」というメタファには、いくつかの重要なポイントがあります。
第一に、人々が、それぞれの日々の忙しさに追われながら、
「今日は誰かいないかな、中原は何かやっていないかな」
とぶらりと覗くことができるということ。
国籍、組織の境はなく、ふらりと垣間見ることができる、いつきても、いつ出て行ってもという意味において、その場は「無境界性」を有している、といえるのかもしれません。
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第二に、縁側では、時には、人が議論をしていたり、無駄話をしていたりしている、ということ。運がよければ「大切なものに出会える」ということ。
ここで大切なのは「時には」「運がよければ」というところです。縁側には、「必ず」あなたが求める人が人がいて、あなたの求める議論を「必ず」していたりするわけではない。
人には、出会えるかもしれないし、出会えないかもしれない。時には、仕事に疲れた僕が、ボケーっと口を開けて、プスプスと燃え尽きているだけかもしれない(笑)。もごもごと、意味のないことを、つぶやいているだけかもしれない。でも、それでいいんです。
でも、一方、時にはこれだ!と思えるような「一言」、こんな人に出会いたかった!、と思えるような人に「出会える」かもしれない。何かに「触発」されちゃうかもしれないし、一気に他人と意気投合して、「共振」しちゃうかもしれない。
この「偶発性」、そして、ほんの偶然に裏打ちされた「共振性」「触発性」がめざすべきものです。
別の言葉で言いあらわすならば、こうもいえます。
それは、「何もない可能性が高い」という意味において、それは「ニヒリズムに裏打ちされたメディア」であり、同時に「もしかすると、何かが、起こるかもしれない」という意味において「希望のメディア」でもあるという二重性をもっているのです。
もちろん、そこにはリスクがないわけじゃない。
たまに変な人がうろついていたり(泣)、縁側においていたものがなくなっちゃうこともあるかもしれない(泣)。「偶発性」「共振性」「触発性」、あるいは「ニヒリズムに基づいた希望のメディア」には、その種のリスクが常につきまとうものなのかもしれません。
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第三に、縁側での会話や出会いには「終わり」がない。
そりゃ、みなさん、生けとし生きるものである以上、いつかは「息絶えて」しまいますが(笑)、でも、Twitterでの会話は、達成するべき何かをなしとげてしまえば終わり、という話ではありません。
それは、興味関心が続く人がいる限りにおいて、また、縁側を開放しておく人が、諒解している限りにおいて、続くということなのかな、と思うのですね。人が出入りし、誰かが来ては去り、誰かが去っては来る。この「更新性」がポイントなのかな、と思います。
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今日、僕は敢えてTwitterを「縁側」に喩えました。でも、このメタファに完全に満足しているわけではありません。もしかすると、今日、新たなメタファをひらめいちゃうかもしれないですね。だといいけどね。
実は、ひとつ満足していないのは、僕のTwitterが「縁側」ならば、僕は、そこで何をしているか、ということ。お茶だしてる? ひなたぼっこ? つぶやき? そのあたりが、どうもまだしっくりきていません。
でも、まぁ、今のところ、僕にとっては、何となくそういうものなのかな、と思うのです。あなたの場合はいかがでしょうか。
あなたにとって、Twitterとは、どのようなものですか?
あなたは、Twitterをどのように喩えますか?
そして、それは、なぜですか?
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■2010年8月31日 中原のTwitterタイムライン
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■2010年8月30日 中原のTwitterタイムライン
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