2010.8.15 20:01/ Jun
「何かを開発したら、それに関係する人々のコミュニティも開発する。そして、開発物とコミュニティのセットを”エコシステム”とよぶ」
先日参加したあるミーティングで、一人の参加者の方が、こんな発言をなさっていました。こうした発想の転換が、今、学習研究の一部に起きていることだと痛感しています。
開発者が取り組まなくてはならない「開発」には、2種類の開発があるのです。ひとつは「開発物の開発」、そして、もうひとつは「コミュニティの開発」です。
今、起こっている変化のポイントは、「開発物の開発」に「加えて」、「コミュニティの開発」をする、ということです。二つの関係性は「OR」ではありません。「And」として不可分に結びついている、ということです。
▼
下記、自戒と反省を込めて書きます。
従来まで、学習研究は、「開発物の開発」に主眼が置かれていました。何か新しいコンセプトの人工物(インストラクションであっても、教材でも、ワークショップ手法でもいいです)をまず「開発」します。そして、その「評価」を研究として行います。
厳密な効果測定を行うためには、「リアルな教育現場」ではなく、いわゆる「実験室」の方が都合がよいことが多いです。よって、「実験室」における「実験計画」が志向されるパターンが多かったように思います。それは、今でもメインストリームはそうでしょう。
「コミュニティの開発」は全くなされていないわけではありませんが、多くの場合、「普及」というラベルが打たれて、それは「研究にはならない」としてあまり重視されませんでした。「あの人は”研究”ではなく”運動”をやっている」というネガティブなラベリングも、なされることがありました。
かくして、「開発物を使う人」は見いだされぬまま、もちろん、「コミュニティ」は開発されぬまま、次の開発物、次の新たなコンセプトの創造に向かうパターンが多いように思います。
こうした研究のアプローチが「悪い」といっているわけではありません。研究者は個々の研究者が好きに自分のあり方を考えればよいのであって、僕が、何かを強制する気は毛頭ありません。
しかし、今、主に米国で起こっている潮流のひとつは、「2つの開発」に取り組むという姿勢であるような気がします。いいえ、「この2つに取り組まざるをえない」という表現する方が、もしかしたら適切かもしれません。
▼
「何かを開発したら、それに関係する人々のコミュニティも開発する。そして、開発物とコミュニティのセットを”エコシステム”とよぶ」
エコシステムとは、開発物にかかわる人々、ステークホルダー、モノの関係から成立しているアクターネットワークです。
開発物はよりよく改善され、使われることが求められる。開発者は真摯に開発に取り組む時間的余裕と、研究業績を望む。ユーザーは、ユーザーのニーズに応じて開発物の改善が進むことを願い、さらにはユーザー同士が、モノを媒介としてつながることを願う。さらには、開発者の所属元は、ファイナンシャルな余裕を生み出し、開発をサスティナブルにするリソースを生む。
エコシステムの開発者は、このように多くの人々の複雑なニーズをくみ取り、関係性をケアし、自分を含めた、すべての人々にWin-winの関係をつくることをめざすのです。具体的には、ネット上のソーシャルメディアやコミュニティで、「日常のリズム」を刻み、定期的なイベントによって「ビート」を聴かせ、人々の「つながり」をケアしようと思います。
それでは、なぜ、そのような「コミュニティの開発」に新たに乗り出さなくてはならないのか。
それは、いくつかの理由があるように思います。最も大きい問題は、おそらくですが、「研究のバジェット」でしょう。開発や人件費をまわしていくための予算、人件費、、、物事にはお金がかかります。それを獲得してくるためには、何らかのかたちで、目に見えやすくわかりやすい「指標」が必要になっているのだと思います。
もうひとつは、学習研究に向けられる「まなざし」の変化でしょう。「あなたたちは、いろいろ言っているけど、結局、教育現場はよくなるの?」「もし学習研究が明日突然なくなったとしたら、いったい、誰がどのように困るの?」という声にならない声が、教育現場の人々、タックスペイヤーの間に、生まれてきているのかもしれません。
「研究は長期的な視野にたたなければなりません」
「研究とはそういうものではありません」
こうした声に対しては、研究者はこのように抗弁したくなると思うのですが、おそらく100%、その声は、研究者以外の一般の人には届きません。
「あなたは、長期的視野といい続けてきたので、待っていました。でも、その時期はいつまでもあらわれません。いったい、いつまで長期的視野にたてばいいのですか?」
▼
しかし、同時に「エコシステムの開発」に乗り出すことは、「パンドラの箱」をあける行為でもあります。それはパワフルではありますが、「リスク」を負うことでもあるのです。
第一のリスクは、エコシステムのケアには、膨大な人員リソースが必要です。たとえば、ある研究室で、10人の人を雇用していたとします。開発にあたるのは2名、残りは皆、「エコシステムのケア」に当てられるということも、起こってきます。
第二のリスクは、いったん動きだしたエコシステムを止めることはできない、ということです。「もう飽きたから、次をやりたいから、はいさようなら」というわけにはいかないのです。
エコシステムには、関係者の複雑な利害が網の目のように、強大なうねりをもって存在しています。研究者は、そこから「降りること」はなかなか難しくなるはずです。あるいは「降り方」に工夫がいるはずです。
第三のリスクは、研究者の研究者としての業績は、コミュニティの開発をしても、必ずしもあがるわけではない、ということです。現在の研究者の評価が、学会論文○本というような、研究者コミュニティからの評価に偏重しているためです。
しかし、この問題は、おそらく少しずつ変わってくると、何の根拠もないですが、感じます。
アカデミズムが、市井の問題から離れて存在すること、さらには、研究者コミュニティ内部の評価によって研究者の評価が決まることは、近代以降に成立したイデオロギーです。
そのイデオロギーを支えるのは、ファイナンシャルな独立性でした。社会の経済状態や世の中の流れとは「独立」に、わりと潤沢に科学技術に予算投資されているという、これまでのアカデミズムのファイナンシャルな状況がそれを可能にしていました。しかし、それが国家予算の逼迫によって、必ずしも、これまでどおりとはいかなくなる現状が生まれてきています。
今日明日に、突然変わることはないとは思いますが、現在の研究予算の逼迫を考えますと、長期的視野にたった場合には、この業績評価の枠組み自体が変化していくことは、必然的であるように感じます。問題は、将来のベクトルは「そちらの方」なのだけれども、「現在のベクトル」は「あちらの方」を向いている、という「現在と将来の矛盾」です。これは「リスク」としてはらんでいます。
第四のリスク。それは、最も根源的なリスクです。それは、「研究とは何か?」「研究者とは何か?」「大学とは何か?」ということに関する、我々自身の揺るぎない信念が「揺れる」ということです。
「最近の大学の研究者って、”開発”もするし、”普及”もするんだ・・・あれっ、待てよ、じゃあ、これが大学で”研究”として行われなければならない必然性って何なんだっけ? 別に企業でもいいんじゃないの? 普及だったら、企業の方がうまいしねー。別に大学でなくてもいいんじゃないの?」
ということです。つまり、自分たちのやっていることが、大学でなければならない理由証明を、同時にしなければならない。
その解決法のひとつとしては、先ほどの第三のリスクと矛盾しますが、「何が何でも、厳密なアカデミズムの手法にのっとって、研究として成立させなければならない」ということになるのです。つまり、従来の研究もやる一方で、コミュニティ開発も行う、ということになります。
「私たちは、開発物のコミュニティもつくります。でも、開発物の評価も、厳密なアカデミズムの手法にのっとったかたちで、きちんとやりますよ」
▼
このように「開発物の開発」と「コミュニティの開発」は、様々な矛盾と思惑を内部に抱え、さらにはアカデミックキャピタリズムに翻弄されながら、人々のニーズを巻き込んで、「強大なうねり」となって進行しています。
グローバルにサバイブすることを願うのなら、研究者に「選択肢」は残されてはいません。先ほど述べましたとおり、「開発物の開発」と「コミュニティの開発」は「OR」ではなく「AND」なのです。
「日本人は、よいものをつくる。でも、エコシステムをつくるのが決定的にヘタ」
先日、会議で、ある方の発した、この一言が、痛烈に心に残っています。
—
■2010年8月15日 中原のタイムライン
Powered by twtr2src.
—
■2010年8月14日 中原のタイムライン
Powered by twtr2src.
最新の記事