2009.6.10 09:28/ Jun
僕の雑誌取材に対するスタンスは、「自分の研究テーマに関係する限り、基本的にはお引き受する」である。
「昔」の大学業界(今も!?)では「商業誌はダメ」だとか「マスメディアは語ったことをそのまま書かないからダメ」とか、何とかかんとか言われたものだけど、僕は、そういうポリシーを、あいにく持ち合わせていない。
このあたりの感覚を言葉にするのは難しいのだけれど、僕がそう思うのは、マスメディアに勤めるカミサンの仕事を傍らで見ていて、「マスメディアは、いわゆる知識人の期待とは異なり、情報を右から左に伝える導管ではないこと」、そして「そうであるからこそ一般の人によく伝わる可能性もあること(間違って伝えられる可能性も大いにある)」を身に沁みて、いつも見ているからかもしれない。
閑話休題。
しかしながら、「自分の研究テーマに関係するかどうか」の判断は、実際のところは、なかなか難しい。
まぁ、そのあたりは柔軟に判断するとして(笑)、基本的には、自分が責任をもって語ることのできる範囲を超えない限り、お引き受けすることにしている。
さすがに「釣り愛好家にとっての学びとはいかにあるべきでしょうか?」とか「ゴルフのスイングを学ぶためには、どうすればいいのでしょうか」というお題は、全く無理でした・・・・ごめんなさい。
確かに研究室のテーマは「大人の学びを科学する」であり、釣り愛好家も、ゴルフをやる人も「大人」には違いないけど・・・ちょっと、それは難しかったなぁ。第一、釣りもゴルフも、ほとんど自分でやったことないからな。
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明日は、某雑誌の取材をお引き受けしている。
テーマはなんと、「ゆとり教育」!
この問題は本当に難しい。なぜなら、「ゆとり教育を語ること」は、文字通り受け止めれば「戦後の教育を語ること」であり、「カリキュラムは誰のものかを語ること」である、「学力とは何かを語ること」になるからである。
あくまで僕の認識によれば、日本の教育の歴史は「経験と知識」という二つの極を「振り子(Moving pendulum)」のように揺れてきた。ゆとり教育も、この振り子の揺れの中で生まれたものと認識している。
そして、ただでさえ複雑なその振り子の揺れに、「教育の市場化か、それとも非市場化か」、「中央統制カリキュラムか学校開発カリキュラムか」、さらには「標準化テストによる測定される能力をめざすのか、それともポストモダン能力か」という3つの軸が加わり、ゆとり教育の言説空間は、さらに「カオス状態」になって進行した。
お題をいただいたときに、一瞬ひるんだけれど、テーマが上記のような「ゆとり教育一般」ではなく(ホッ)、「企業の人材育成におけるゆとり教育の意味」であったので(でも難しい)、「自分の勉強のためにもなる」と思ってお引き受けすることにした。
短い時間ではあったけれど、いろいろと情報を収集した。何となく語るべきことはわかってきたが、でも、まだ、ぼんやりとしている。
今日一日考えてみよう。
でも、きっと明日はディスカッションになるような気もする。
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