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2009.3.6 09:56/ Jun

僕らは皆、「素朴教育学者」である

 我々は、皆、「素朴教育学者」です。
 12000時間におよぶ長い長い被教育経験の中で、私たちは、皆、「教育とは何か」「学びとは何か」という根源的な問いに対する持論(信念)を形成していきます。
 いわゆるアカデミックな「教育学」と区別して、これを「素朴教育学:Folk Pedagogy」と呼びましょう。
 素朴教育学をもつこと自体は、決して、悪いことではありません。わたしたちは、自分が望むと望まないとにかかわらずして、素朴教育学者になります。もちろん、僕も、素朴教育学者の一人です。僕の中には、「教育学研究者としての僕」と、「素朴教育学者としての僕」がいることを正直に吐露します。
 あたりまえのことですが、いわゆるアカデミックな「教育学」と比べて、「素朴教育学」が低位なものであるとは、僕は思いません。それは別の種類のものだと思います。
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 僕が最も懸念するのは、「素朴教育学」が「揺らがない状態」にある場合 – つまり、独りよがりな固定的信念になっている場合です。
 素朴教育学が、誰からも指摘やコメントを受けることなく、自己に閉じていく場合、それは「私の教育論」に転化します。
 そして、「私の教育論」化した素朴教育学は、皮肉なことに、「私」を超えたがるものです。もはや「私の中」にとどまっていることはできません。
 そして、それを「公準」に、会社・組織の教育システム、学習システムが設計されるとき – つまりは、「私の教育論」が「私たちの教育システムの設計」に適用されるとき – 必ずしもポジティブな影響を生むことばかりではないと、僕は思います。
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 くどいようですが、僕も、あなたも、そこの彼/彼女も、みんな「素朴教育学者」です。
 問題は、「素朴教育学」があるかないか、ということではありません。
 ポイントは、お互いの「素朴教育学」を吟味したり、比較したり、省察したりする場があるか、ないか、ということです。素朴教育学は、常に「揺らぎの中」になければなりません。そして、お互いの素朴教育学の中から、新たな教育システムを創発することができるかどうか、ということです。
 あまり役に立つことのないと言われる「教育学」ですが、「素朴教育学」を斜めに見たりする、ズラして見るための素材、あるいは、みんなで素朴教育学を省察したりするときの素材としては、非常に有益だと思っています(人文社会科学系の学問は、”自省の学”であると思っています、僕は)。
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 あなたの「素朴教育学」は何ですか?
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“学習・成長する個人”から”変化する組織”へ
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