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2008.6.27 23:59/ Jun

「学び」と「破壊」、時々「葛藤」

「学ぶこと」とは、自分につながる人々との関係を「壊すこと」でもあり、「葛藤を抱えること」でもあります。
「学ぶこと」を「みんな仲良しハッピーハッピーのような社会状況」の中で起こるものと捉えたりすると、「学ぶこと」の本質を、ひとつ見逃してしまうのではないでしょうか。
 最近、僕は、このことが気になって仕方がありません。
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 たとえば、メンタリング。
 これはピアツーピア(上司 – 部下 / 先輩 – 部下)といった社会関係の中で営まれる「学び」の形態とも読みとることもできるかと思います。そして、これにも、「葛藤」が含まれます。
 キャシー=クラムによると、メンタリングの進展とは下記のようなプロセスをとります。
●開始段階
 ・関係がはじまり、それが両者にとって重要になる
●養成段階
 ・キャリア的機能(組織階層の上昇移動)
 ・心理社会的機能(アイデンティティの確保)
●分離段階
 ・構造的な役割関係や感情面での大きな変化
●再定義段階
 ・関係がはじまり、それが両者にとって重要になる
 ・分離段階をへて関係性が終了するか、相当違った
  性格をもつ、同僚関係への移行
 ここで、僕が気になるのはやはり「分離段階」です。ここで、先輩 – 部下、上司 – 部下、いわゆるメンターとメンティの関係は、「緊張」状態に入ります。
 それまでメンターに助けられ、キャリア的にも、心理的にも、ようやく自律をなしとげられたのにもかかわらず、その関係に「緊張」が走るのです。
「もう自分は自律しているのに、いろいろ、先輩ズラしてピーピー言われるのもな」
「結局、オレの能力があがってきたことが気にくわないんだろう。オレにとってかわられるのが怖いんだろう」
「もうあいつも一人前になったのに、今までと同じように自分の時間をこれ以上削るのもな」
「最近、あいつは生意気だな、まだまだヒヨッコのくせに・・・ここらで突き放すか」
 といった役割変化や感情の変化が両者に生まれ、一時的に関係にひびがはいります。最悪の場合は、そこで関係が終わりということもないわけではありません。
 もちろん、社会的関係がカタストロフィーにむかわず、うまく「再定義段階」に入れた場合、両者の役割関係がもう一度見直されます。それまでの垂直関係から、「同僚」といったような水平関係に移行できる場合があります。
 しかし、既存のものに、一時的に「葛藤」が生まれ、「壊され」ることも、また事実です。このように学ぶことには、どうも「壊すこと」や「葛藤すること」といった状況がセットでおこるようです。
 —
 ちなみに、「学習をコミュニティへの参加」と把握した正統的周辺参加の理論にも、人々の関係の「葛藤」が折り込まれています。
 たとえば、今、新参者が、あるコミュニティに参入してくるとします。彼は、最初は、コミュニティの周辺で、一時的な仕事を観察したり、担ったりしていきます。
 しかし、彼の「参加」が成功し、つまりは「コミュニティの周辺」から「中心方向」に対して、その活動が移行してくるにつれて、彼は、今まで見えなかったものがたくさん見えてくるようになります。
 そして、さらに新参者のコミュニティの活動を担おうとするとき、それまで、そのコミュニティを牛耳っていた古参者との間に、「葛藤」が生じるのです。
 場合によっては、古参者と新参者の立場の入れ替えといった事態も起こらないわけではありません。
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 このように、学ぶことは「キレイゴト」ではありません。学ぶことには、既存の社会的関係に「葛藤」を感じたり、場合によっては「壊したり」、「再構築」するとといったことが必然的に含まれます。そして、だからこそ、学ぶことは「人間らしい」ことでもあるように思うのです。
 人は学べば、「今まで見えなかったもの」が見える。「やりたかったこと」がわかりはじめる。しかし、あなたの目にうつりはじめた「新しい世界」は、周囲の人々が見る「それ」とは、決して同じではない。
 抜き差しならない社会的状況の中で、当初は「曙光」すら見えず、「何か」を破壊したい衝動にかられ、葛藤に苦しむ。そして、その果てに「何か」をつかむ。その繰り返しが「学ぶ」ということなのかもしれないな、と思います。学ぶとは、すさまじいものだとは思いませんか。
 そして、今一度、自分が「教える側」の立場において想像力をたくましくしてみると、「人の学びにつきあうのは、喜びを感じるものであると同時に、切ないものだなぁ」とも、しみじみ思うのです。
 僕も、短い人生のあいだに、多くのことを学んできました。僕の学びを支えてくれた人との、葛藤や別離を繰り返しながら。僕を教え導いてくれた人々は、僕の成長する姿を見て、僕が苛立っている様子を見て、その一瞬、いったい「何」を感じていたのでしょうか。
 「教えること」とは、そうした葛藤や別離を「いつかはくるもの」としてとらえ、むしろ「喜び」にかえて、生きていくことなのかもしれません。

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