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" In the mirror " by Miwa
2004/11/30 栓のないバスタブ ここに書いたかどうだか忘れちゃったけど、実は、ワタクシ、英会話の「NOVA」に行っております。もともとはカミサンが通ってたんだけど、なんだかオモシロそうなので、僕もマネしました。 「NOVAとハサミは使いよう」とか、いろいろ言われるNOVAですが、僕としてはかなり気に入っています。とにかくNOVAは安いと思います。時間さえうまく融通すれば、マンツーマンレッスンが2000円近くで受けられる。 でも、NOVAは英会話をはじめてやる人にはあまり向かないのではないかと思います。が、いったん獲得した英会話の能力をKeep upするにはよいのではないか、と思います。 しっかし、いつもNOVAにいくたびに思うのは、だんだんと英会話を忘れて行っている、ということです。「忘れる」というのは、正確ではないかもしれないね。忘れるというよりも、細かい言葉が「すぐにでてこなく」なっている、という感じかな。 もちろん、ケアしているつもりなのですが、それでも、日常生活で英語をしゃべることは皆無に近いですね。だからやっぱりダメです。 東京海上にお勤めの方で、お名前は失念してしまいましたが、その方がいうには、「日本人にとっての英語っていうのは、栓のないバスタブに水をためるようなもの」だそうです。 上の蛇口からは、がんがんと水を注ぎ込んでる。だけど、バスタブには、栓がない。上から水を入れ続けなければ、水(英語力)はすべて失われる運命にある。 これはとってもよいたとえだと思います。本当にそのとおり!! とか感心してる場合じゃなくてさ、何とかせなアカンですな。まぁ、気楽に楽しんで続けていきたいと思います。 2004/11/29 よいところ 今日のお昼は、田口さん、理事長秘書の田村さん、葉田さん、辻さんと、NIMEの近くにある沖縄料理屋にランチにいった(西森さんは愛妻弁当)。 葉田さん、辻さんは、今年からNIMEの助手に着任なさった先生方で、これまでも見かけることはあったけれども、長い時間お話しするのは今日がはじめてだった。お二人とも、とてもよい方で、話が盛り上がった。よかった、よかった。
考えてみれば、教育工学のワカテが、ひとつの機関にこれほど集まっているのは、日本中どこを探しても、NIMEだけである。一般的な大学では、同じ専攻分野の教員はなかなか採用されない傾向があるから(例外もある)、ワカテで集まろう、メシ食おうといっても、なかなか集まることは難しい。 ランチからの帰り道、自分が勤務する研究機関の「よいところ」を、ひとつ発見した。 2004/11/27 スーパー銭湯 自分やカミサンの実家に帰省したとき(北海道と奈良ですな)、必ず行くのが、スーパー銭湯である。 僕は無類の風呂好き。1時間でも、2時間でも風呂になら入っていられる(非生産的な会議や構造化されていないレジュメは5分耐えられない!)。 ところで、地方のスーパー銭湯をおとずれるたび、「スーパー銭湯を楽しめるのは、地方に住む人間の特権、東京に住む僕にはかなわぬ夢」とため息をついていた。「好きになってはいけない人を好きになる」みたいなもんでさ、それだけは望んじゃいけない、って思ってたんです(意味不明)。 確かに後楽園にラクーアができて以来、東京でも手軽に温泉に入ることができるようになったけど、なんせかんせ、ラクーアは高い。1回3000円近くの入湯料を支払う必要がある(とはいえ、いつも払ってんだけど)。 だからさ、「東京にスーパー銭湯を!」というのは、僕の切実な願いなんです。東京都知事選で、「スーパー銭湯を東京につくるぞ!」という公約をあげる人がもし仮にいたのだとしたら、たとえ、それがドクター中松とか、羽柴秀吉でも投票したんじゃないかな、と思う。 そしたらさ・・・なんと、あるんだね、既に東京でもスーパー銭湯が。びっくりよ、もうあるんだってさ、ぶったまげた。僕は車のらないから、わかんなかったのかな・・・。 たとえば、高井戸にある「美しの湯」とかね、大谷田にある「明神の湯」とかね、豊島園にもあったよ。あるのねー、結構。その中のいくつかに言ってみたけど、いいねー。すばらしい。
でさー、僕、もうね、決めたよ。次引っ越しするときには、絶対にスーパー銭湯のある駅を選ぶってさ。やっぱりね、Quality of Lifeを高めないとね。 そう決めたら、引っ越しはやくやりたくなってきた。 2004/11/26 大学の誕生日 11月25日は大学設置審の結果がでる日だったらしい。セミナーに参加頂いた講師の方々の中には、その結果をまっている方もいらっしゃった・・・。 注目の、特区を利用した株式会社による大学の学部・大学院の設置については、下記の3校が認可をうけたとのこと。これら3校に関しては、これまでもメディアに取り上げられていましたね。いよいよ来春から新入生がやってきます。
米国大学の10%は株式会社の設立による、いわゆる営利大学。営利大学と非営利大学の競争も非常に厳しいものがあります。また、学位や大学教育の質の保証は、米国高等公教育の大問題でもあります。 日本の大学は今後どのような方向に向かうのでしょうか。 2004/11/25 終わった この1ヶ月間、僕のアタマの中を支配してやまなかった「大学経営戦略セミナー 社会人大学院の未来」が無事終了しました。関係者の皆様、本当にお疲れ様でした。ご協力ありがとうございました。 大阪会場は、東京より人数は少なかったけれども、よい雰囲気の中、各講師によるレクチャーが進行しました。 なお、本セミナーの様子は、また機会を改めてご紹介します。ていうのは、デジタルカメラのファイルが今手元にないので。ただ、はやく配布資料が欲しい、という方もいらっしゃったので、仮サイトだけつくりました。下記からどうぞ。
セミナーでお会いした杉山先生@デジタルハリウッドに、下記の情報をお聴きした。 なにやらカーネギーメロン大学が、日本に情報大学院をつくるらしい。兵庫県が出資した財団法人が設立母体になるみたいだけど。
授業は当然英語。日本にいながらにしてカーネギーメロン大学の正規の学位(Master of Science in Information Technology)を取得できるとのこと。 かつてのブームになり、あえなく徹底が続いた海外大学の日本校。今度は、大学院で激戦がはじまるか。この大学院とは、既存のいくつかの新設大学院が競合するように思うけど・・・。 追伸. セミナー修了後、望月君、松河くんらと久しぶりにあって、夕食。もちろん、僕は飲んでないよ。松河君、笑顔戻る!、よかったね。 2004/11/25 まかせる 「まかせること」は難しい。 「まかせること」は決して「放置プレイ」ではない。はたまたそれは「制約のない自由」ではない。「まかせること」ができなければ、マネジメントはできない。モノゴトを前に進められない。 「まかすこと」ができない人もいる。事細かに発せられる、かの人の物言いからは、「あなたを信用していない」というヒドゥンメッセージ(隠されたメッセージ)が否が応でも人に伝わる。やる気は、急激に、確実に失われる。 「まかすこと」がかえって、あなたがやるよりも多くの時間を浪費するかもしれない。あなたがやるよりも、多くの行き違いがおこるかもしれない。しかし、たとえそうであったとしても、あなたは「まかさなければ」ならない。 この世の中にあなたは10人いない。所詮、あなたができることは、チッポケなことであることをまずは知るべきである。そして、あなたがこと細かに発する物言いの限界を次に知るべきだ。 何かを為すためには、結局、あなた以外の人が必要である。 2004/11/24 ハーブティをゲットした! 今日はお休み。江戸東京博物館で実施している「Oh 水木しげる展」をカミサンと見に行ったあと、昨日の日記に書いたとおり、ハーブティーを入れるお品を、銀座に買いに行く。 三越の食器売り場で、ハーブティのポットとグラスをゲット。肝心のハーブティだが、何をかってよいかわからず、とりあえずは、銀座プランタンのモード館3Fにある「ボタニカル」へ。
ここはハーブティの専門店なんだけど、結構な値段にびっくりする。100グラムで、3000円近くするんだよねぇ・・・おちゃっぱがさ。結局、「ふだん飲みの紅茶」に100グラム3000円は高すぎるということになり、あえなく撤退。結局、リーヴは銀座プランタンの地下でゲットした・・・。 ずっと歩きっぱなしで、やや疲れたので、銀座三越の中国茶の喫茶店で、休むことにする。ここでも、ノンカフェインのプーアル茶を飲む。 中国茶は、飲むのがはじめてだったけど、オモシロイねぇ・・・。なかなか奥が深い。作法は最初うまくできなかったけど、だんだんうまくなってきた。
というわけで、何とかこれで、コーヒーなしでも生きていけそうです。 --- 追伸. 2004/11/23 ハーブ 数日前の日記で、ほとんど「死にかけ人形」のような「鬱」日記を書いてしまったが、まぁ、確かにそのときは、意気消沈して「死にかけ」だったんだけれども、少しずつ少しずつ立ち直ってきた。 ともかく、最悪の時期は脱したように自分では思う。ていうか、だんだんと病いがわかってきたというのかな、自分のカラダのことがわかってきたのかもしれない・・・うーん、そういうことを見返す余裕ができた?。いずれにしても、今は、ゆっくり、じっくりと、療養するしかない。病気の明確な理由は、いまだわからないらしい。 療養中のオチャケ! 当然のことであるが、これは厳禁である。「とかなんとかいって、中原君、実は飲んでるんでしょ!」と何人かの人に言われたけど、飲んでへんっちゅうねん、ホンマに。 僕はもともと、自分に規範をいったん課したら、それをかたくなに遵守する性格であるから(意志の堅さだけは唯一自慢できると思う)、そのことはぜんぜん辛くない。でもさ、ひとつだけオチャケなんかより、辛いことがある。それは、「コーヒー等のカフェイン飲料を飲めない」ってことである。 あのね、これね、ミソは「コーヒー等」の「等」にあるわけよ。紅茶、緑茶、ウーロン茶、ほうじ茶・・・お茶というお茶には、すべてカフェインが入ってるからね。要するに、「おめーは茶も飲むな」ってことなんです、「等」で言いたいことは・・・。だったら、最初からそう書けっちゅうねん。 で、カミサンと相談して、僕にも飲めるお茶を今日探しました。結論は、麦茶とハーブティー。これだけは飲めます、これだけは。 ていうか、麦茶って。小・中学生以来だよ、麦茶飲むのは。麦茶といえば、よく怒られたなぁ、冷蔵庫の麦茶を飲み干してしまったあとに、新しいのをつくっておかないと、うちのオカンに、ぶったたかれた。実は麦茶はあんまり好きじゃないんだよなぁ。 でも、僕にはハーブティがある! まぁ、まずはカタチから入らなければならんだろう、ということで、明日、ハーブティーをいれるポットなどを買いに行こうか、と思ってます。で、本を買いにいかなアカンなぁ。どうせやるんだったら、とことんまで勉強して、とことん凝りたい。 いやー、凝るモノが見つかってよかった、よかった。これでワインと焼酎の「穴」を埋められるとよいんだけど。 今は病気とはいえ、せっかくのチャンスなんだから、この機会を生かして、自分の知らなかったことについても、知りたいものですね・・・その方が楽しいだろうし。 ハーブティー、どんなのあるのかな。どなたか、おすすめのハーブティー、あるいは、ハーブティ屋さんがあったら、教えてください。 2004/11/22 教育学は死んだ!? ここ最近、広田照幸先生の教育言説に関する一連の著作を読みました。特に気に入ったのは「教育言説の歴史社会学」ですね。 この本の中で、広田先生は、「教育的なもの」 - この場合は教育の中で内部創造される「教育的概念」といったものが、どのように生まれ、作動してきたのかを、文献や歴史的資料にあたりつつ、明らかにしています。いわゆる歴史社会学というのでしょうか。時にはカルチュラルスタディーズ風のテイストのする分析も含まれています。 この本で取り扱われているのは、たとえば、「個性」といった普遍的かつアプリオリに善性を帯びた概念が、どのようにして生まれ、世の中に流布するようになったのか、ということですね。教育の現場には、この手の、「ア・プリオリな善」というのがあふれていますね。 どうやって、「アタリマエの善」を見つけるか?それは簡単。これだとめぼしをつけた○○を使って、ひとつの文章をつくってみればいい。そうすると、その文章が、リトマス試験紙みたいになると思います。 つまり、「○○なんてクソ○らえの教育っていいですよねー」っていう物言いが、どれだけ人に受け入れられるか、どうかを考えてみればいいわけです。 たとえば、「個性なんてクソ○らえの教育っていいなぁ」って言ったら、それを聞いたほとんど100%の人が、「は?」って顔をするか、顔をしかめるでしょ。それがアプリオリな善性というヤツなのかもしれません。 ところで、不勉強ぶりを公開するようで本当はイヤなんですが、かつて広田先生の著作は、「しつけ」に関するものを1冊読んだだけでした。今回は「陸軍将校」の研究から、一番最近の著作である「教育」までを拝読させて頂きました。 広田先生の研究は、どちらかといえば、「教育の自明性を問い、教育の善さを疑う研究」ですね。こうした研究は、教育社会学者のもっとも得意な領域と言えるのだと思います。たとえば、後から詳しくお話ししますが、「教育の権力性」「教育の政治性」の研究などが典型的にそれに類するものでしょう。 教育に権力?・・・政治性?・・・・僕自身は、こうしたテイストの研究に学部3年になってはじめて出会いました。で、驚愕して立ちつくしそうになった。このことが今日の日記の話題です。ていうのは、広田先生の本を読んでいたら、久しぶりにそうした研究の雰囲気を思い出し、なんだか、自分が教育学部にいた頃のことを思い出しちゃったんですね。 正確にいうと、僕だけではなく、「僕ら」とよぶのが正しいのかもしれません。教育学部に入学した学生の多くが、体験したであろうアポリア(難問)、その前に悩んだ(ふりかもしれません・・・仮に悩んだとしても、僕に関してはゾウリムシの悩みかもしれませんが)を思い出してしまったのです。 嗚呼、学部といっても、そんなに前の話じゃないんですよ。今からわずか、8年前の話です。そうね、昔話にするには早すぎる。 でも、当時の僕らが、教育学部の中で、教育の権力や政治性といった問題になぜ悩んだのか、そして、あるものはそれを無視し、あるものは立ちつくし、あるものは第三の道を探そうとおもったのか・・・そうした「若気の至り」を忘却のかなたに消えゆく前に、振りかえっておくには、8年という時間はよいかな、とも思うわけです。 ですから、今日は思い切って、8年前を思い出しつつ、お話ししようと思います。
さて、8年前の東京大学教育学部。 東大には「進路振り分け」という制度があります。学部1年生から2年生までの成績順に、自分の好きな学部学科に進学を決めることができるという制度です。 実は、僕、「教育心理学」のコースを受験しましたが、あえなく、落選、がーん。あとほんのちょっと点数がたりませんでした。「日本一点取り競争のうまい人」たちの中で点取りゲームを2年間やってきたわけですが、どうしても、あと0.2点足りなかった。 で、結局、「学校教育学コース」というところに進学します。学習心理学をやりたいな、と思っていたのですが、学校教育学コースには佐伯先生がいらっしゃったので、迷わずそこを選ぶことにしました。 ところで、教育学部っていうのは、東大の中で結構、異色な学部で、自分でいうのも何なんだけど、「おおらかな、マジメな人が多い」と言われています。どちらかというと、「人の役にたちたい人」とも言えるのかなぁ・・・。 こういったら怒られるかもしれませんが、「とにもかくにも要領だけは天下一品」の東大生の中では、珍しく、のんびりとした人たちが集う学部ではないかと思います。 考えてみたら、官僚になりたい人は法学部にいくし、民間に行きたい人は経済学部にいく。マスコミに入りたい人の多くは文学部などにいくという感じで、これらは王道、ガツガツ系だね、言うたら、お決まりコースです。 それに対し、教育学部の学生っていうのは、そういう王道をあえてはずして(ハズれる人もいるけど)進学してきています。大学院に行きたい人ってのも多く、他には先生になりたい人もいれば、民間にいく人もいる。 結局、他の学部から考えて、いろんなカラーをもった人たちが、のんびりと仲良くマジメに学んでいる雰囲気が、当時の学部にはあったような気がします。 でね、教育学部に入る学生はそんな感じのカラーなんですが、はいってしばらくすると、みんなに共通していることがあるなぁ、と思うようになりました。それは何かというと、「教育に対する熱情」です。
なんといってもよいのですが、先ほどの話でいうならば、教育学部に入り立ての学生は、教育のアプリオリな善性を信じているように感じたのです。別の言い方をするならば、教育のもつ力に、聖性を付与しているといってもいいかもしれませんね。 もちろん全員ではありませんよ。中には学校に全くこないヤツだっています、人それぞれです、そんなものは。ただ、僕個人の印象としては、おうおうに、教育に関しては、ポジティヴな印象をもって進学してくる人が多いように思いました。 しかし、ここからがオモシロイのですが、教育学部に入って授業を受講しだしたとたん、事態は一変します。講義にもよりますが、授業の中で先生たちが語るのは、教育の善性ばかりではない。
そうした教育の負の部分を語られる。そういう教育の負の部分をまざまざと見せつけられたとき、自分の中で「教育はかくあるべし」と思っていた形而上学的な思いが、崩落してくることを思い知らされるのです。 今はどうなのか知りませんが、僕が教育学部にいた頃は、「当為学としての教育学」・・・つまり、教育の中に想定された善なる概念をもとに、教育を体系的に語る学問としての教育学・・・形而上学的な教育学が見直され、「事実学としての教育学」がしきりに主張されていました。 要するに、教育現場の中で作動する様々な負の側面を事実として認識することから、教育学を再構築しなければならんぞ、といった動きとでもいうのでしょうか。 学問的には、1980年代後半から、1990年代にかけて、たとえば「教育と権力」「教育と政治」といった関連研究の知見がガシガシでたころだったと思います。 たとえば、「教室で教師が会話を統御するために採用するストラテジーには、どのようなものがあるか」を明らかにした研究とかね。「中産階級の子どもとハイクラスの子どもの使う文法には、どのような違いがあるか?」とかを言語分析した研究とかもありましたね。ショッキングなところでは、「進路カウンセラーは、子どもの学力だけでなく、社会階層をもとに、彼らの進路を判断している」とか・・・。 数え上げたらキリはありませんが、そういう研究群を紹介した本も出版されていましたし、授業の中でも頻繁に取り上げられていました。 当時、ある先生が、授業の中でおっしゃった言葉を僕は忘れることができません。その先生は、「教育と権力」「教育の中のポリティクス」といった事柄の実証的な研究を、授業でたくさん紹介されていました。授業は、本当に目からウロコでした。で、彼はこう言ったんです。
ついこないだまでは駒場で「たこ焼き」食いながら麻雀やっていた僕ら。教育学部に進学したばかりの僕ら。その僕らに、進学早々、突きつけられた一言が「教育学は死んだ」です(笑)。 「えー、じゃ、これから何学ぶのよって感じ」で、思わず、パンツがずり落ちそうになったことを覚えています。 ところで、先ほど個人的印象として、教育学部に進学する人は、なんだか「おおらかな人がおおかったような気がする」という、本当に、どこからどう切っても「根拠のない個人的な印象」を書きました。彼らは「教育に対する熱情」をもっていた。で、ホントウの問題はここからなのです。 彼らは先験的に教育が「善なるもの」だと思って、この学部に進学してきました。しかし、どうもそれだけではないみたいだぞ、と気づくわけです。 教育は社会の不平等を拡大したりすることもある。時のポリティクスに従順だったり、支配階級にとって<善なること>を為す社会的装置であったりすることもある、ってことを学んでいくんです。 これは大きなギャップです。本当に大きなギャップ。それが自分の選んだ進路と密接に関連しているから、さらにたちが悪い。 そして不幸なことに、そのことは決して変えられない事実であり、そして十全たる解決策が今のところほとんどないアポリアなわけです。教育学部にきて、子どもや教師や社会にとって善なる研究をしたいと思っていた人間にとっては、本当にショックです。 こういうギャップに熱情をもった学生たちがぶち当たったとき、どういう反応をとるか。それは、僕の経験から3タイプくらいあるように思います。
1はそのままですね。「権力・・・なんだっけ、それ」と言って、ボケ倒す(笑)。 2は1より正攻法ですね。2の学生は、「だからどうした?、現場では、今日も、子どもが育ってるんだ。問題があるからといって、研究やめてどうする?、問題があるからといって、教育をやめられるか?」とたたみかける。 そして一番問題は3です。本当に何もできなくなってしまう。それまでに持っていた熱情が大きければ大きいだけ、ショックがでかく、自信がもてなくなってしまう。
という具合になって、何もできなくなってしまう人もいます。そういう人、僕はたーくさん、これまでに、みてきました。 はい、それでは、当時の僕は何を考えていたのか。僕は、2に近い意見をもっていたように思います。ただ、「たたみかける」だけではなく、自分の研究の方向性みたいなものを考えていたような気がします。
若気の至り甚だしいとおしかりを受けそうですが、当時の僕は、そんなことを真顔で考えていました。いや、本気で考えていたのです。「教育学は死んだ」と言われてパンツずり落ちたままじゃイヤだなぁ、と思ったから(笑)
今回、広田先生の本を読んで、僕がそんなことを考えていたときのことを思い出しました。そういう悩みがあったときのことを、僕はもう少しで忘れそうになっていました。本当によい機会だったと思います。「教育言説の歴史社会学」は、本当におすすめです。 今も決してこの問いに対する答えはでたわけではありません。今もずっしりとアタマをもたげる問いであります。いや、僕だけじゃないんだと思うんです。 たとえば、「総合的な学習の時間」の創設は、いわゆる「探求活動」に親和性の高い子ども - というと、おそらくはおうちでも探求活動が奨励され、親がケアできる子ども - をハイライトするが、そうでない反探求文化をもつ子どもは、この時間で高い学業成績をあげることができないのではないか、とか。 最近では、「協調学習(交流学習といってもよいと思います)」という学習の形態は、いわゆる「エリート教育」のひとつで、議論やディスカッションという高次の学習活動になれている子どもの学力は伸長するが、そうでない子どもには辛い、とかね。 何か新しいことをやろうとすると、先ほどのような問いがアタマをもたげることが多い。決して解決しないことなんだろうけど、無視してはいけなくって、どう引き受けるか、自分の中で、さしずめ、どういう答えをだすのかが問題なんだと思います。 この問題、皆さんは、どう思いますか? 2004/11/19 モバイルする!?科学教育 申し込み開始 東京大学大学院 情報学環 BEAT講座の12月研究会「モバイルする!?科学教育」の申し込みがスタートしました。4名の若手研究者がコンピュータを使った科学教育、モバイルを使った科学教育の事例を、具体的に紹介します。会の最後には、ミニワークショップも開催。 今回は、限定30名の申し込みとなりますので、お早めに!
2004/11/18 シンポジウム NIMEでは、昨日から、毎年恒例の国際シンポジウムが開催されている。
今回のシンポジウムには、MITから、OCWのPublic relationsなどを担当するFarnazさんが、参加していた。MITにいた頃、彼女とは何度か会ったことがあり、今日、久しぶりの再会となった。 立食ランチで彼女と雑談をしていたときにおもしろかったこと。彼女は今回、新宿の某高級ホテルに宿泊しているそうなのだが、なんで、遠いのにそこを選んだの?と聞くと、映画「Lost in translation」の話をしていた。 周知のとおり、Lost in translationの舞台は、西新宿のパークハイアットホテルである。きっと、日本にくる外国人にとって、その地に宿泊することは、憧れなんだろう、と思った。きっと、気分はスカーレット=ヨハンソンなんだろうな。 --- シンポジウムでは、坂元前所長にもお逢いすることができた。僕は今年3月ボストンに在住していたため、坂元前所長のご退官の時には、ご挨拶できず、今まで時間が過ぎていた。坂元先生には、渡米を認めて頂いた上、iii online、exCampusなど、様々なプロジェクトで大変お世話になっていたため、そのことは、少し気になっていた。 坂元先生は「これから、講演で、ウズベキスタンと、タイと、シンガポールにいくよぉー」と話しておられた。信じられないほど「お元気そう」で何よりでした。 2004/11/17 カラダ 長い間の無理がたたったのか、それとも、単なる飲み過ぎか(今は全く飲んでいない...)何なのかはしらないけれど、病院通いが続いている。検査、検査。正直かなり精神的に参って、「シオシオのパー状態」だったが、一番気になっていた今日の検査結果がよかったので、よしとしよう。Webで病気のことを調べて、鬱に入るのも、もうやめようと思う。 12月初旬に予定されていたオーストラリアでの学会発表は、キャンセルした。また、12月中旬に入るかもしれなかったアメリカ視察旅行もキャンセルである。また来週の京都大学での会議も欠席させてもらうことにした。 正直どれもいきたかったのだが、今の僕では、行っても恥ずかしい発表をしたり、足手まといになるだけである。またご一緒する方々に絶対に迷惑をかけることになってしまう。残念だが、いたしかたない。 --- そんな中、今年のビックイベントが開催された。「大学経営戦略セミナー 社会人大学院の未来」の東京会場は、大盛況で無事終了した。 吉田先生、田口さん、支援課の高橋さん、牧田さん、藤枝さん、リクルートの渡辺さん、江國さん、理事長秘書の田村さんらには、本当にお世話になった。ありがとうございました。残るは25日の大阪である。こちらも気合いをいれていこう。 研究関係では、15日から3日間、東京大学でProject Fishのミーティングが開催されている。山口さん、西森さん、望月くんらと3日間にわたって、来年開発する「モバイルベースの科学教育コンテンツ」のコンセプトを決めている。これは、我ながら、またトンデモナイものができそうな予感である。愉しみだ。 会議の間、体力がもたず中座したりすることも多い。宮崎からわざわざきてくれている山口さん、神戸からきている望月君らと夕食等もご一緒したいのだが、それができない。メンバーには本当に申し訳なくおもっている。ごめんなさい。 --- ふだんは動いてアタリマエだと思っている「カラダ」...今の僕にとって、それは「所与」のものではない。今まで考えすらしなかったことを、いろいろ考えたりする。ふだんは心の奥深くにしまっていることを、そっと開いてみたりする。 目の前にある様々なチャンスを、今の僕は、逃している。 2004/11/11 組織 「やる」ということについて、考えるべきである。 モノゴト手当たり次第、「やればいい」というわけではない。「やっている」から、ともかくOKというわけでもない。やったことがカタチになり、誰の目にも知覚可能でなければならない。 「手当たり次第」が、組織の中で蔓延したとき、組織のメンバーは次第に忙しくなっていく。いくら「忙しく」なっても、結局のところ「手当たり次第による忙しさ」だから、成果はでない・・・報われない。 「頑張ったのに成果がでない」・・・人は無気力を次第に学習する。そして、人は動くことを避ける。情熱を忘れる。やる気は消える。 組織論の金井先生はいう。
カイカク、カイカク、カイカク・・・いろんな組織が変わることを余儀なくされている。ビジョンなき忙しさ・・・迷走する忙しさは、組織にとっても、個人にとっても百害あって一利なしである。 2004/11/10 ニート 日曜日は東京大学大学院 BEAT講座の公開研究会でパネルディスカッションに参加し、月曜日は教育システム情報学会のシンポジウムで講演をしてきた。 毎日新聞社Web BEAT講座 公開研究会 このところ、精神的にも、体力的にも、ややテンパッテいたのだが、もうひとつ最大のイベントがある。言うまでもなく、「大学経営戦略セミナー 社会人大学院の未来」である。 「社会人大学院の未来」は席数150名のところに、現在、180名近くの申し込みがある。非常にありがたいことである。準備は今日も急ピッチで進んでいるが、僕が週末、週明けに走り回っていた分、ロジスティクスを田口さんに大きくお願いしてしまうことになってしまった。ごめんなさい・・・そしてありがとうございました。 いよいよ今夜はリクルート社で最終準備がある。ともかくここまできたら頑張ろう。 --- ちょっと話題にするのには古いかもしれないけど、前から読みたかった本「ニート」を読みおえた。 ニートとは言うまでもなく、NEET:Not in Education, Emplyment, or Traing」の略語である。働くわけでもない、就学しているわけでもないワカモノのことをいう。現在、そういうワカモノが日本中に89万人いるのだという。 玄田先生といえば、通常「就労意識の低下」の結果として語られやすいフリータの問題に対して、異を唱えた方である。 彼の前著「仕事の中の曖昧な不安」では、フリータが中高年の雇用を守るために構造的に生み出されたことを論じている(要は中高年をリストラすることをさけるために、ワカモノが犠牲になったということ。そうであるにもかかわらず、仕事につけないことがワカモノの個人の努力に帰属されることが多い)。 本書「ニート」について、細かいことを述べるのは差し控えるが、第6章の「誰もがニートになるかもしれない」は、とても共感をもって読むことができた。今、目の前にニートの人がいるのだとしたら、同じことを僕は言いたいと思ったし、万が一自分に子どもができたのだとすれば、「働くこと」に関して、僕はそれを伝えたいと思った。 第6章で彼は、「やりたいことがわからないから仕事をしない」、「働くことは楽しくなければならない」といったような、もっともらしい言説を相対化し、「やるべき本当に出会えるかもしれないから働く」「働くことは、自分の無能さを思い知ることと無縁ではなく、悲しいことである」と述べる。一見、それはレトリックに見えるかもしれないけど、そうじゃない。素朴に、かつ正直に「働くこと」を語れば、そういうことなのだ。 90年代に生み出された「自分探し」の言説は、今、相対化されようとしている。 2004/11/08 近況 金曜日。午前は健康診断。月曜日再検査決定(泣)。昼食は、田口さん、理事長秘書の田村さんと「フイトー」にて。 午後からNIME。会議に忙殺。また「社会人大学院の未来」が迫っているだけに、その準備が大変。教育支援課の高橋さん、牧田さん、藤枝さんらには、本当にお世話になっている。 夕方、東京行きの特急にのって、丸の内。その後、東大で山内さんと打ち合わせ。食事は、本郷三丁目の「鰻菜わたなべ」に。「鯛のオカシラの酒蒸し」と「麦焼酎 神作の詩」がヒット。山内さんとは久しぶりにゆっくりと、いろいろなお話をした。楽しかった。 土曜日、午前中プレゼンづくり・・・ようやくできた。でも、まだ11日のものができていない(泣)。 午後、NHKホールで開催されている某ショーへ。今回のショーは、カミサンがディレクターをつとめた。2ヶ月間の不眠不休、本当にお疲れ様。 その後、渋谷で旧友の土田くん、加茂くん、カミサンとで食事。合間に渋谷の西部デパートで、焼酎お湯割りを飲むための素焼き(伊賀焼)のコップを購入。最近、僕、消化器系統を壊しているため、大好きな白ワインを控えている。より健康!?な焼酎にシフト中。 日曜日、午前中、雑務。11時30分、一色さん@ナレッジプラットフォーム、山内さんと食事。午後、東京大学大学院 BEAT講座 公開研究会にパネルディスカッションに参加。おそらく、その後、フォレスト本郷でフランス料理!?で懇親会かな。 そして人生は続く。 2004/11/07 憤死 今日の夜、あまりの怒りに、久しぶりに、憤死するかと思った。 6月にニューヨークのD&Gで買ったスーツのパンツの方を、「さて、今度のセミナーで着ようかな・・・お直しせななー」と思って、足を通したところ、なんと!、なんと!、万引き防止タグが、裾についたままになっている! もちろんのことながら、たたいても、引っ張っても、タグはとれない。「とれるわけねーべ、このバカが」という感じで、全く動く気配すらない。 このD&Gのスーツ、6月21日の日記をみていただくとわかるように、入手するまでにも非常にイヤな思いをした。紆余曲折の上、ようやく入手できたのに、今度はこれかい! なんか、あのときの店員に「チチチ、ツメが甘いのー、このアホめ!」と言われているような気がして、怒りがこみ上げ、憤死寸前だった。この俺様を、最後の最後まで、コケにしおって! ぶっ殺す! すぐに受話器をとって、電話。「何しとんねん、金かえせ」と押し問答。さらにアタマにきて、チョメチョメ語炸裂。
すぐに玄関脇の道具箱にペンチやら、ニッパやら、トンカチやら、はんだごてやらを持ち出して、2時間格闘。怒りの緊急オペレーション。 2時間後、ようやく分解を完了しました。 2004/11/06 イベント セミナー、プレゼン、論文・・・。なんか過剰負荷に耐えられなくなってきたのだろうか、頭が発熱して、またもや「つるっぱげ」になりそうです。 月曜日に下記のようなところでお話し致します。
あと、前にもご紹介しましたが、東京大学大学院情報学環BEAT講座の公開研究会を、今週、日曜日に開催します。ふるってご参加頂ければ幸いです。
2004/11/05 ヨーグルト 最近、マイブームというのでしょうか、また凝っているものがあります。僕の凝り性は、父敏(さとし)から譲り受けたものなので、やむをえないかもしれません。一度とりつかれると、誰になんと言われようと、自分で満足するまでは、やめられなくなるのです。で、納得さえすれば、やめるのはスパッとやめられる。思うに、受験とかは、そういう、やや神経症的な性格が功を奏したのかもしれません。前世は、単なる「ジャンキー」かもしれん。 閑話休題 で、最近はやっているもの、何かっていうとね・・・ヨーグルトよ! 「みのもんた・おもいっきりテレビ」並に根拠ないけど、なんか、健康そうじゃん(笑)。うーん、僕の思考回路はゾウリムシなみに単純かもしれません。 帰国してから、可能な限り多くの市販のヨーグルトを試しました。お昼ごとに、コンビニとかで、いろんな種類のヨーグルトを買って。お気に入りは、ヤクルトのソフール・ライト。ライトがポイントです。通常のものは、やや甘すぎる。あと、小岩井プレーンヨーグルト グルメファン。
朝食には、まずメールをチェックしながら、ソフール ライトをデスクで食べます。ヤクルトにつとめてる友人の金子くんには、ずいぶん、貢献してると思うけど。で、そのあとで、ベーグルを焼いて、それと一緒に小岩井をしばくことにしてる。 朝っぱらから2種類のヨーグルトを食べてる、これ異常。僕は、どうも「限度」というのがわからない人間のようです。すまんな。 こんなにヨーグルトばっかり食べていては、きっと僕の腸の中は、「菌」だらけでしょう。よしよし。それがよいことなのかどうなのか、僕にはわかりません。願わくば、悪者を退治してくれるとよいのですが。たのむで、しかし。 2004/11/04 世界の大学危機 このところ、書籍のことばかり日記に書いている気もするけど、気にせず今日も紹介。 もともとは、著者の所属する桜美林大学 国際学研究科 大学アドミニストレーション専攻の大学院生のためのテキストとして編まれた本。
イギリス、ドイツ、フランス、アメリカ等の大学が、歴史的にどのように生まれ、発展してきたのか。そして、何が課題で、それをどのように乗り越えようとしているのか、について概観している。 筆者によれば「大学が危機に直面しているのは日本だけではない」。もともとは、エリート養成機関として、あるいは、イギリスであるならば階級の再生産のための装置として構築された近代大学。しかし、経済が成長するにつれ、それは激しい大衆化の波にさらわれ、危機に瀕している。 --- 読んでいて印象的だったのは、本当にアタリマエのことなんだけど、「大学」といっても一様ではないのだな、ということ。我々が知る大学もまた歴史的構築物にすぎず、その意味が変容し続けている、ことを知ることができる。 大学は現在、大衆化の波の中で、学問の卓越性を保持し続ける、というアポリアを課されている。どこかに「大学とはかくあるべし」といった万能な規範があるわけではない。それを海外に求めてみても、それ自体が様々な問題を抱え変容を余儀なくされている。畢竟、大学の未来をつくるのは、今の大学に関与する同時代人たちである。 2004/11/03 新しい大学生論 僕にとって、読書は仕事である。だいたい新書1冊であれば、行き帰りの電車の中で「読み」終える。「読む」といっても、それは文字通りの「読む」ではない。 研究が一応仕事であるから、一ヶ月に本当に膨大な書籍や資料に目を通す必要がある。だから、僕の読書は、いつも悲しいかな、それは職業的な「読み」にならざるを得ない。ざっと目を通して、書籍の中でもっとも重要な部分を抽出するような読み方になってしまう。 しかし、そんな中でも、オモシロイ本はじっくり「読んでしまう」。アメリカにいた頃に、著者の溝上さんから献本頂いていた本、「現代大学生論」は、そんな本のひとつであった。本当にじっくりと時間をかけて読んだ。 著者も述べるとおり、この本の要旨は「アウトサイド・イン」「インサイド・アウト」という2つの大学生の生き方にある。この概念については是非、お読みになっていただきたいのだが、従来の大学生は、外部世界に準拠して自己の心的同一性を確保する「アウトサイド・イン」であった。それが、今、「インサイド・アウト」へと変容してきている。「わたしが何をしたいのか」「私とは何か」というインサイド・メンタリティを若者たちが重視しはじめた。溝上さんは、各時代時代の「大学生論」や「社会状況」を歴史的にひもときながら、その変容のプロセスを記述している。 中でも印象的だったのは、下記の点である。 彼によれば、従来の大学生論、大学生の語られ方が、「大学はレジャーランドである」「大学生は遊ぶことしかあたまにない」など、数十年前に確立された言説のもとに構成されているのだという。しかし、そろそろそのような大学生論も曲がり角にきている。なぜなら、現代の大学生は、何よりも学業を優先するまじめな学生、そのまじめさ故に、いかに生きるべきかを見失う学生 - いわゆる「ユニバーシティ・ブルーの風に揺れる学生」が多くなってきている傾向にあるからである。それなのに、多くの教育改革、大学生論は今をまさに生きている大学生像に迫っていない。著者の指摘は鋭い。 大学の教育改革を考えたいと思う人とって、本書は、必読であると思う。 それにしても、溝上さんの精力的な仕事には感服した。研究者とは彼のような人をいうのだなぁ、と思う。僕の尊敬する研究者の一人である。彼がとても、信じられないくらいに忙しい人であることは知っている。いったいどこに、このような著書を書く時間があったのだろうか。そのことは、不思議でたまらない。今度、飲む機会があったら、是非、そのことをお聞きしたいものだと思っている。 2004/11/02 教育社会の設計 矢野眞和氏の「教育社会の設計」を読んだ。この本、アメリカ留学中に知って、是非、帰国後に読みたいと思っていた本であった。 社会を設計するためには、「教育」と「経済」、その2つを別々の世界に閉じこめてはいけない。その2つがいかに密接にからみあっているか、その関係を読み解くことで、つまりは、実証研究の蓄積の果てに、未来の教育、未来の社会を構築することができる。本書に通底しているメッセージは、これである。 かつて46答申が出されていた頃は、文部科学省の委員会にもそうした実証主義が息づいていたが、今、そうした姿勢はとうに失われている。ステキな教育を提案する「べき論」と「役人の振り付け」、そして、あまりにも私的な「わたしの教育論」が教育をより迷走させる。 矢野氏は様々な「常識」、普段は疑われずにやり過ごされている様々な神話を解体する。「学校の知識は役にたたない」とうそぶく企業人事担当者の欺瞞。「民間活力を導入すれば、財政難も解消され、経済も活性化する。学校もその例外ではない」と言ってはばからない「市場主義経済学者たち」の欺瞞。読んでいて、非常に痛快である。 また、学歴収益率の議論、専門職と所得決定関数などの実証研究は、非常に勉強になった。おすすめの本である。 2004/11/01 辞令 11月1日付けの東京大学の辞令にて、東京大学大学院 情報学環の客員助手を拝命いたしました。兼任教員というそうです。メディア教育開発センターでは、これまでどおり仕事を続けます。
具体的には、情報学環に今年の4月から開設された「ベネッセ先端教育技術学講座」の仕事をしていくことになります。僕が担当するのは、「科学教育コンテンツとモバイルデバイス」のプロジェクト。本プロジェクトについては、すでに、メンバーを集め文献購読をすすめていますが、今後、さらに本腰をいれて取り組みたいと思います。 今後は、メディア教育開発センターの仕事と、東京大学大学院での仕事、両者のバランスをうまくとっていくことが重要だなぁと思っています。 体力も、時間、そしてとても残念なことに僕の集中力は有限です。そこに必要なのは、自己管理でしょうか。 Enjoyするで。 |
NAKAHARA,Jun
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