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" In the mirror " by Miwa
2004/06/30 【急告】公開研究会、「地上デジタル放送と教育展開」 「地上デジタル放送」と「教育のあり方」を考える公開研究会が、7月3日(土曜日)、東京大学にて開催されます。内容は非常に先進的な内容で、今後の放送教育のあり方、教育サービスのあり方を考える上でも非常に貴重だと思います。入場無料です。申し込みも不要です(懇親会に参加希望の方は、下記のフォームで申し込みが必要です)。 どうぞ、ふるってご参加下さい。
2004/06/29 プロジェクト近況 こちらにきて半年。いろいろな人にインタビューしたり、文献などを調査してきた。一方、夜にはテレビ会議システムを用いて、日本のプロジェクトに可能な限り取り組んできた(メンバーの方々にはたくさん迷惑をかけてきたと思う・・・ごめんなさい)。 下記は日本のプロジェクトの進捗状況。こうして進捗状況を「文字にして」みると、自分がこれからやらなければならないことがわかってよいなぁ、と思った。
追伸. 「おしゃる技術」というメルマガがオモシロイ。会議の最中とかには絶対に読まない方がよい、吹き出すから。是非、おすすめです。
2004/06/28 ボストンおすすめレストラン 先日に続いて、最近行ったおすすめレストランの紹介。学会などでボストンにいらっしゃったおりにはどうぞ。今回の一押しは、チャールズホテルのレストランでのサンデーブランチ。朝食を抜いていったほうが満足できると思うよ。
2004/06/27 メトロポリス カミサンの通っている大学院の先生が、「メトロポリス」という映画を貸してくれた。 メトロポリスは、フリッツ=ラングが1929年に公開したトーキーSF映画で、あのヒトラーもファンだったという。映画の舞台は、公開当初から100年後、2026年の近未来都市。 フリッツが描いた2026年は、必ずしも明るい未来ではない。科学や工学が急激な発展をとげた結果、いわゆる資本家 - 労働者というダイコトミーが拡大。労働者は、都市の暗い地下で単純労働に追いやられる一方で、資本家は地上の楽園で過ごしている。 映画の最後は、資本家と労働者が握手するという、ちょっと安易な終わり方になっているものの、彼が提示した問題は今もなお、やはり問題であり続けている。むしろ、貧富の格差が「ダイコトミー」として意識されないままに、確実に広がっている点は、状況は悪いと言えるかもしれない。 映画の中では、近未来都市、テレビ電話に代表される様々なデバイスが登場する。今から100年前に、このような未来を構想できたことは驚愕に値する。 --- 追伸1. 2004/06/26 Super size me 夜、ハーバードスクエアの映画館にいって、「Super size me」という映画をみた。今日、アメリカでは、ブッシュ政権をこきおろすマイケル=ムーア監督の映画「華氏911」が公開され大変な話題になっている。そのおかげで、映画館はとても混んでいた。
「Super size me」は、「1ヶ月ものあいだ、1日3食マクドナルドのメニューにのっているハンバーガーやポテト、ソーダのみで生活すると、カラダにどのような影響が起こるか」を監督自らがやってのけたドキュメンタリーである。医師やスポーツ専門家などに専門的アドバイスをもらいながら、彼は一ヶ月を過ごす。結果、体重は約10キロ増え、肝臓に障害をかかえることになるのだが。 ちなみに、「Supersize」とは、マクドナルドのポテト、ソーダの最も大きいサイズをいう。レジで並んだときなどに、「Could you supersize them!」というと、信じられないほど大きなブツをあなたは手にすることができる。
この映画、科学的、かつ中立な立場からファーストフードの危険性を論じているわけではない。その点、やや色眼鏡を通して映画を見る必要があるものの、監督が訴えたかったことは、オモシロ、おかしく伝わっていると思う。 ひとつだけ深刻だと思ったのは、アメリカの小学校、中学校、高校でのランチの様子。本当に子どもたちがジャンクフード漬けであった。本当にこれはぞっとする絵だよ。 ちなみに、映画の中ではファーストフードにいくつかのファクトがでてくる。とっても興味深い数字や事実だったので、ここで紹介する。
Wanna supersize it? 2004/06/26 プロフェッショナルの時代 今日は、MITスローンスクールでエグゼクティヴ教育のディレクターをつとめているトビー、田口さんと「CAFE SUSHI」でランチを食べた。 トビーとはいろいろな話をしたが、最も印象に残ったのは、下記のような彼女の問いであった。
この問いに対して、田口さんは「アメリカのダイバーシティ」について、僕は「働きながら学ぶ人の多さと魅力」について答えた。 しかし、僕の場合、あとから考えると、確かにそれも衝撃的なんだけど、あまりに「月並み」な答えであったことを反省した。うーん、あまりにも「力が抜けちゃっている答え」っていうのかな・・・英語力のなさもあるんだけどね。 で、少し反省しながら帰り道、マスアベ沿いを歩いていたら、それよりももっと感銘を受けていることがあることに、ようやく気がついた。 それは「プロフェッショナルが、米国の教育組織を実際に動かし、彼らの智恵こそが元気な教育組織、教育事業をつくる源になっている」という、センテンスにしてみれば、なんてことはない、やっぱり月並みな事実である。でも、今回の渡米で、僕はその「月並みさ」を、ひしひしと「あー、こういうことだったか」と実感することができたように思う。 ともかく、つくづく思い知らされたのは、米国の教育機関における「プロフェッショナル」の層の厚さであり、それを大量に生み出す大学の役割であった。 たとえば、昨日、僕はイベッタさんの勤務先を引き合いにだし、こうした研NPOが「政策 - 研究 - 現場」の媒介になっていることを述べた。このNPOには様々な領域のプロフェッショナル(あるいはプロフェッショナルの卵たち)が勤務しているのだという。 この手の例は枚挙にいとまがない。MITのOCW(オープンコースウェア)やSMAなどの様々な教育事業も、それを生み出したファカルティのビジョンは確かにスバラシイが、それを実際に動かしているのは、プロフェッショナルな人々である(少なくともプロフェッショナルに振る舞える人々である)。 大学やNPOだけじゃない。企業内教育だってそうである。ASTDで発表をしたり、意見を戦わせているのは、その領域のプロ達である。昨日は、Bliue cluesの話をしたが、テレビ番組の制作プロセスにだって、教育学の知見をもった専門家の智恵がいかされている。 それにひきかえ、大学を含めて日本の教育機関、教育部門に圧倒的に不足しているのは、そうしたプロフェッショナルな人々であるように思えて仕方がない。そこにいる人が「必ずしも」悪いわけではない。 あまりうまくいっていないな、と思われるのは、むしろ、制度や教育システムであるように思える。具体的に言うと、プロフェッショナルな人々を随時雇用できる体制であったり、プロフェッショナルを養成するシステムが、米国に比べてあまりにも脆弱なのではないだろうか。 予言師みたいでイヤなんだけど、これからの教育で中心的な役割を果たしていくのは、「プロフェッショナル」であるように思えて仕方がない。必ずしも教師だけでなく、すべてのセクターの教育関係事業に、彼らの力が活かされるような社会基盤をつくっていく必要があるのではないか。 僕はそう思う。 このことに関して、帰国後、1つ案が浮かんでいる。これ以上仕事を増やしてどうする、という話もあるが、是非、取り組んでみたい。 2004/06/25 Blue's cluesとNPO Harvard Ed schoolの我喜屋さんのご紹介で友人になったイベッタさん。昨日は、僕と妻と彼女の3人で、クーリッジコーナーにある日本料理屋「フガキュウ」でディナーを一緒にした。 彼女とはいろんな話をしたが、セサミストリートと最近話題になっている幼児番組「Blue's Clues」との対比の話が印象深かった。 Blue's Cluesは、セサミがと同じ学齢を対象にした幼児番組で、その背後にながれる開発思想が全く異なっている。 具体的には、セサミストリートが「子どもの注意力は3分が限度なので、セグメントにわけて番組が構成するべきだ」という開発思想をもっているのに対して、Blue's Cluesはセグメントがない。 Blue's Cluesの場合、お兄さん役のアクターが、子どもに語りかけるようにして番組は続く。お兄さんの発話の間には、1秒程度の間があり、その間に子どもが思考し、発話できるように構成されている。 セサミストリートは、ハーバード大学のジェラルド=レッサー教授が中心になって開発されたことはよく知られている。当時、その開発プロセスは、番組ディレクターと研究者の「結婚」とまで言われた。 それに対して、Blue's Cluesも同じように独自の研究チームをもっている。その中心には、コロンビア大学でPh.Dを取得したAlice Wilderがいる。Blue's Cluesの開発の背後には、「子どもの注意力は、長い間でも維持可能である」という彼女の思想が反映されているのだという。彼女は何名かのリサーチャーを組織し、番組の開発を支援し続けた。 「注意」をめぐる2つの思想。そこから生まれる異なった番組構成。とても興味深い。ちなみに、下記はBlue's cluesの開発に関して書かれた本。 それにしても、かえすがえす羨ましいのは、番組予算の中に、キチンとしたリサーチの予算がくまれ、リサーチャーが関与しながら、制作が進むというプロセスである。 アイデアだしや、コンセプトメイキングに終わるのではなく、キチンとした方法論による観察と分析の結果が番組に反映される、というセサミストリート以来の伝統が、今も、生き続けている。なんだか、教育学が「役にたってるぞ」という感じがして、とてもいいな、と思う。
ディナーをすましたあとは、イベッタさんのおうちに少しだけお邪魔した。とてもModernで、Neatなお部屋だった。 ところで、イベッタさんは2000年にHarvard Ed. Schoolでマスターをとり、現在は、Education Development CenterというNPOに勤務している(ちなみに、中川さん@同志社国際、一色さん@ナレッジプラットフォームのことをご存じでしたよ・・・)。これまでいくつかのプロジェクトに従事し、忙しい日々を過ごしているようだ。 僕的には、彼女のつとめるEducation Development Centerも大変興味深い。設立は古く、1958年。現在、社員が600名。335ものプロジェクトをかかえている巨大な教育研究NPOである。 聞くところによると、それぞれの社員が、外部団体や政府に対してプロポーザルを提出し、グラントを獲得してプロジェクトを独自に運営しているらしい。 たとえば、省庁が募集を行う公募プロジェクトなどがあるとしよう。NPOは、そうした公益性の高いプロジェクトの運営主体であることが多い。もちろん、すべての社員がグラントを獲得できるわけではないので、他人のプロジェクトにアサインされたりすることも多いとのことであった。 最近は少しマシになってきたが、日本でNPOというと、一般に「慈善団体」か「ボランティア団体」と勘違いされることが多い。しかし、米国におけるNPOとは、そうしたイメージとは全く異なる。自ら予算を獲得し、専門性の高い社員を抱え、プロジェクトを動かし、第一セクターにも第二セクターにもできない仕事をバリバリ行っていく。それはどちらかというと、公益性の高い「会社」に近いような気もする。 一昨年末から、僕もEduce Technologiesという教育研究NPOの理事(副代表理事)をつとめている。まだこのNPOには、専任の研究者、社員はいないので、理事の何名かは忙しい毎日をぬって、活動をおこなっている(ちなみに深夜や休日・・・先日の総会は夜8時からであった)。 専門性の高い社員を雇用し、プロダクトを生み出し続ける米国のNPO。非常に勉強になったし、いつの日にかは・・・と思っちゃったりもした。 帰国後は、Educe Technologiesで試みてみたい企画がいくつかある。 2004/06/24 キャタピラ社のCoP 先日、テレビ会議システムでボストンから行った遠隔講義では、コミュニティ・オブ・プラクティスの実際の事例を紹介した。 コミュニティ・オブ・プラクティスについて、経営(マネジメント)のコンテキストから注目されたのは最近であるが、学習論(Learning Theory)のコンテキストからは、10年以上も前からずいぶん議論されている内容である。実は、両社の議論には看過することのできない理論的断絶があるのだが、これについては、かなりヤヤコシイ話になるので、時をあらためて述べることにする。 今年、僕は、何名かの研究者の方々と一緒に、ある企業とコミュニティ・オブ・プラクティスに関する共同研究を推進している。そんなこともあり、国内・海外の事例には、一応ひととおり目を通そうと努力しているのだが、先月号のTraining & Developmentに、キャタピラ社の実践共同体の事例がのっていた。別件で講演を依頼されていることもあり、自分のために要約を作成した。でもさ、自分のためだけっていうのも何だか寂しいので、ここで公開しようと思う。 エティエンヌ=ウェンガーのCultivatingの本がでたのが、2001年。それから3年たって、ようやく、いろいろな実践事例がでてきたようだ。Catch upするのは大変だが、それはそれで楽しい。 2004/06/23 作品づくり ボストン美術館付属大学院に通っているカミサン、今日は、スーパーから、なにやらいろいろ野菜を買い込んできた。どうやら、コースの最後に提出する作品制作に使うらしい。
彼女は、今、「Bigger is always better!?」という作品に取り組んでいる。2日前くらいだろうか、彼女の言葉を借りると「クリエィティヴのカミサマが降臨してきて」、ようやくテーマが決まった。夕方、セントラルスクエアの「パール」という画材屋さんで粘土と針金を買いにいくのにつきあった。 どんな作品が生まれるのやら、楽しみである。 2004/06/22 HBS Interactive, Inc 久しぶりにインタビューにでかけた。 今日行ったのは、Harvard Business Schoolのマルチメディア教材を開発するHBS Interactive, IncのCLO(Chief Learning Officer)のジュディ。 このインタビューは、田口さんがアレンジによるもの。彼女のスーパーバイザーであるウィルキンソン先生からはじまり、HBSのディヴィット・ガービン先生を経由して、今日にいたった。 下記は、そのときのメモ。
先日ニューヨークに行った際、D&G(ドンカバチョじゃないぞ、ドルチェ&ガッパーナだ)で、スーツを買った。 日本の正規の値段ではとても買えないけど、ここがアメリカで安いのと、セール中だったので、非常にお買い得で、僕の寂しいお給料でも何とか買えた。 ニューヨークは消費税が8%以上と非常に高いことでよく知られている。しかし、これには裏技があって、ニューヨークからボストンに郵送すれば、ボストンの州税(5%)が適用される。 こちらにきたばっかりの頃の僕だったら、たとえ安くても、お持ち帰りしたと思うのだが、店員が「郵送しちゃえよ、安いから」と勧めるのと、「まぁ、大丈夫だろう」と思ったこともあって、結局、郵送にした。アメリカでの生活に少し慣れて、ナメていたところもあるのかもしれない。 でさ、2週間たっても、届かないのよ、まだ(笑+怒)。 最初は、店員さんが住所を間違えたらしく、我が家からわずか数ブロックのところまで到着しつつも、ニューヨークに逆戻り。やや怒り調子でニューヨークに電話したらそれから1週間でくると言っていたのに、なぜか、D&Gの他の支店に返品されたらしく、今になってもまだ届かず、というわけです。 ちなみに、先方の店員は「We are sorry」の一言なんて言うわけない。「今、担当がいないんだ、悪いんだけど、明日のお昼に電話してくんない」という始末である。 アメリカのカスタマーサービスが全くをもって最低なのは、この日記でも書いていたけど、あのね、シャレになんないから。 教訓1. 面倒な思いをしたくなかったら、税金は喜んで支払うこと 2004/06/20 ナニをいれてんだ? カミサンとボストンで暮らすようになってから2週間が過ぎた。おかげで、外食に頼りすぎていた僕の食生活は大幅に改善し、彼女自身も愉快に大学院に通っている。土曜日はまたロケだそうである。本当にロケの好きな人だ。僕も助手として同行する。自宅でも助手。
ところで、最近、自炊をするようになって気がついたことがある。それは、こちらの食品の賞味期限の長さである。たとえば、今日買った牛乳の賞味期限は、3週間。豆腐にいたっては、4週間の賞味期限である。卵も丁度1ヶ月だった。 おかしくないか? どう考えても、考えるのもおぞましい「何か」を大量に食品に入れているとしか考えられない。ちなみに、僕たちの行っているスーパーは、「オーガニック」系の少し値のはるお店である。そこに並んでいるお品でも、こうなんだから、他のお店にいったらどうなるか、考えるだけでもおそろしい。ちなみに、数ある商品の中でも、僕たちは一番賞味期限の短いモノを買っている。 そういえば、前にこちらの人と話していて、「日本人は生卵食べるんだよね、考えられない」と言っていたのを思い出した。 「そりゃ、アンタらは食えないだろうよ、1ヶ月の賞味期限の卵なら」 2004/06/19 遠隔講義 昨日、東京大学大学院 情報学環の授業「学習環境デザイン論」で遠隔講義を行った(山内さんの担当講義)。 講義はWeb会議システムを使った 講義のタイトルは、「Designing communities of learners」である。企業、教師教育など様々な領域において導入されているOnline communityについて事例を中心に話した。 荒木さん、酒井さん@東京大学情報学環の協力をあおぎ、彼らが専攻している分野でのOnline Communityの事例についても紹介をしてもらった。大変お忙しいところ時間をさいてくれた荒木さん、酒井さんには、この場を借りて感謝致します。本当にありがとうございました。 授業が終わったら、11時近かった。それから飲んだビール1杯は、なぜだか知らないけれど、とても旨かった。ぐびぐび飲んでしまったぞ。 2004/06/18 プログラミング言語戦争 最近、プログラムの開発環境が投げ売りに近いカタチで、発売されている。
僕が大学院生の頃は、「開発環境は高いもんである!」というイメージがあって、先生に「欲しいんですけど」とおねだりしにいったことを覚えている。 確かに、開発環境がなくてもプログラムは書ける。でも、開発環境があったほうが、その敷居がぐーんと下がる。これで、きっと新たにプログラミング言語を勉強する人が増えたり、開発案件をちょっと違う言語で書いてみるか、という人が増えてくるだろう。特に、学生がはじめて覚える言語に、どの言語が選択されるかっていうのは、結構デカイ。 開発環境を投げ売りしはじめた各社の試み - その背後には、開発環境を売って儲けるというビジネスモデルを放棄し、次なるビジネスモデルを確立しようとする思惑が見え隠れする。 ユーザとしては、こうしたことは非常に望ましいことだが、「低価格」「公開」という美しい言葉の背後に、プログラミング言語の「戦争」を感じざるを得ない。 2004/06/17 コンテキスト 2004/06/12の日記「なぜ、あなたの実践が伝わらないのか?」について、またまた、何人かの方からメールをいただきました。ありがとうございます。 その中のお一人、スタンフォード大学 Learning Design Technologyでマスターを取得された安藤さんによりますと、彼女がスタンフォード大学で勉強をしはじめた際、学習の場をケースとして記述する訓練をなさったそうです。 行動主義の学習、情報処理アプローチの学習、状況的認知アプローチの学習に関係する論文を読みディスカッションを行い、宿題として2〜3人のチームでケースを書くといった訓練だったそうです。それはそれは大変な経験だったそうですが、今の安藤さんの土台になっているとか。James Greenoの授業だったそうですが、こうした方法はとても参考になりますね。是非、日本の大学でも取り入れるべきだと思います。 ところで、先日は、僕は「5W1Hに気をつけて学習が生起するコンテキストをリッチに記述すること」を主張しましたが、どうして僕がこういうことを、強く思うようになったかを少し考えてみました。 それはおそらく、2つくらい理由があるように思います。 1つは、東京大学時代でエスノグラフィーという研究方法論を勉強したこと、2つめは大阪大学大学院でソフトウェアの開発研究をした経験です。 まず1つめの東京大学 教育学部での経験ですが、当時の教育学部(特に僕の所属していた学校教育学コース:Dept. of Teaching, Curriculum, and Learning Environments)では、エスノグラフィー、エスノメソドロジー、といった「記述的」な研究方法論に関して、多くの授業で取り扱っていました。方法論的にもそうだったのですが、教育学的にも、俗に「Narrative Turn」とよばれる理論的転回が起こり始めていた頃のように思います。認知科学では、状況的認知アプローチが最も元気だった頃で、毎月のように東大で多くの勉強会が開催されていました(僕は学部生でしたが、随分とモグらせていただきました)。 まぁ、ともかく僕を含めて当時の学部生は、専門にはいってすぐにその洗礼を受けましたので、それがアタリマエだと、思っていました。今から考えてみると、そこで否定されることの多かった統計学的な研究方法論などに、僕らはあまり触れずに、最初からobsoleteなものと認識する傾向があったことは、とても残念なことだと思います(先生方はその重要性をもちろんわかっておられたのだろうが、少なくとも当時の僕はそれを学ぼうとはしていなかった・・・結局、僕の場合、大学院にいってから勉強するハメになりましたが)。 いずれにしても、僕は、この教育学部での勉強に、なぜか「ハマッテ」しまい、結構、愉快にハードに勉強をしていました。やはりこのときに読んだ本、そして、自ら行ったエスノグラフィーの方法が、今でも僕にこびりついているように思うのです。 「学習の現場を記述する際には、その場を周辺的な情報から浮かび上がらせるように記述する」 - 脱中心化方略とよばれていますね - とでもいうのでしょうか。そうやってつむがれた物語によって、人は「学習がどのように生起したのか」「そこで起こっている実践の意味」を理解できるはずである、という風に感じるようになりました。 で、僕はその後、大阪大学大学院に進学します。 あっ、そうそう、僕が大阪大学に進学したことについて、「アイツは東大で何かをやらかして、大阪にいった」というような事を言っている輩がいるということを人づてにききました。 全くの誤解です(笑) 大学院進学にあたって、僕は、大阪大学大学院1校しか受験していません。東京大学大学院の入試は、受験していません。僕はとにかくソフトウェアやツールの開発研究がやってみたくてしかたがなかった。当時、東大では、いろいろな教育ソフトウェアを見たりしていた。でも、いつしか、他人のつくったものを見たり、分析したり、批評するだけじゃ、僕は満足ができなくなっていました。で、教育工学の研究室がある大阪大学を選びました。今から考えると、その選択は、人生の中で最もナイスな選択のひとつであった、と思っています。 ところで、大阪大学に進学してからの僕は、少しずつ開発研究にのめり込んでいきました。プログラミング言語やサーバの管理などを少しずつ覚えて、1年くらいたった頃には、自分でプログラムをガシガシと書けるようになりました。 「ソフトウェアの開発と学習が生起するコンテキストの間に、なんの関係があるのだ」と疑問に思う方もいるかもしれませんが、それが実は大ありなのです。簡単に言いますと、こういうことです。 「あなたの学習者がどんな人で、どんな風に振る舞い、何をしたいと思っているのか」について、しっかり把握しておかないと、ソフトウェアのインタフェースや機能のデザインはできないということです。 たとえばね、一番簡単な例をあげますと、今、あなたは、あるソフトウェアのインタフェースを作り込んでいるとする。そこに、「OKボタン」を1個配置しようとしますね。どこにボタンを配置するべきか、あなたは考える。でも、あなたはここで想像力を働かせて、学習者がそこでどう振る舞うかを、アタマの中で記述しなければなりません
このように、あなたがターゲットにする学習者の姿を、あなた自身が「見て」いないと、ソフトウェアやツールというものは、開発できない、ということを僕は大阪大学で学びました。自分が開発するツールを使っている学習者の姿。彼が置かれているコンテキストを詳細に、かつ記述的に思考する方法論、とでもいうのでしょうか。 長くはなりましたが、そんなこんなで、僕は今でも「学習者が具体的に何をやっているのか」 - その具体的かつ細部にわたる記述にこだわっています。 「学習の現場を他人に伝えたい」と思うのなら、あるいは、「学習者が利用するアーティファクトを開発したい」と思うのなら、こうした思考法は、不可欠でないのかな、と僕は思います。 2004/06/16 ○○屋 最近読んだ本の中に、こんなくだりがあった。 「自分は○○屋さんである」という文章の○○を埋めてみよう。自分だったら、そこに何がはいるだろうか。○○屋というのは、文字数が少ないだけに、そこに文字をいれるにはじっくりと考え、見つめ直す必要がある。 ○○屋に似たようなセンテンスに、「○○畑」というのもある。これはどちらかというと、ディシプリンをあらわす言葉なんだろうか。 僕の専攻は、教育工学である。しかし、教育工学屋というのは、長すぎる。4文字は楽だけど、逃げてはいけない。学習科学ってのもなしね、もちろん、協調学習屋さんも、インストラクショナルデザイン屋さんも。他人は、そんな長いこと、詳細なことなど認識してはくれない。あくまで、○○でなくてはならない。 そう考えると、やっぱり僕は教育屋であり、教育畑出身なのだな、と妙に納得した。あなたの場合はいかがですか? 2004/06/14 アップデート あと少ししたら、ボストン美術館付属の芸術大学院、ボストン大学大学院で、サマーコースがはじまる。実は、僕はその2つの学校で学生として学ぶ予定である。僕が取ろうと思っているコースは、「ゲームデザイン」と「教材開発」に関するワークショップ。どちらもFlash、PHP、PostgreSQLなどを使う。 Flashは、前から、一度本格的に学びたいと思っていたけど、取り組むのはこれがはじめてになる。PHPやPostgreSQLは、ASPやPerlとそれほど変わらないので、だいたいはわかるものの、それに触れるのは、以前久松君(大先生)がやってくれた講座に参加して以来。 費用は十数万円。決して安くない金額である。英語に続いて、これも自己投資のひとつだと思って、納得するしかない。 考えてみれば、これまで僕は「社会人大学院へ行こう」などの著書、論考があり、そこでは「学び続けることの重要性」を主張していた。人に主張していて、自分が学び続けていないのは、言行不一致はなはだしい。 だからというわけではないが、やっぱり新しいことを学ぶのは楽しく、愉快である。 2004/06/13 ボストンのレストラン ニューヨークのレストランに続いて、ボストンのおすすめレストランの紹介です。 ちなみに、Webがないお店に関しては、下記で地図を検索できます。 YAHOO.COM MAP
2004/06/12 なぜ、あなたの実践が伝わらないのか? 先日、ASTD2004という学会に参加したことは、既にレポートとして公開したとおりです。で、そのレポートの中で、僕は下記のようなことを書きました。 「企業内の人材育成の試みを語るときのフォーマット(プロトコル)、場のルール」を早期に確立するべきだ、と僕は思っている。教育学では、教師研究の領域にこの種の研究の蓄積があり、現在も発展している。それを行わない限り、いくら「事例」を報告されても、オーディエンスの納得を引き出せないのではないだろうか。 これについて何人かの方から、質問をいただきました。 「中原さんが書いていたのは、人材育成担当者が、自分の会社の試みを人にしゃべるときの語り口とかの問題ですか?」 そうですね、それもあります。整理すると、僕がここで言いたかったのは、下記のことです。
もちろん、上記はあくまで例です。もっともっとやり方はあると思う。 いずれにしても強調したかったのは、「学習は、それが生起するコンテキストが重要」だということです。コンテキスト・リッチな記述をもとに、学習について話し合うことをしないかぎり、なかなか有意義な事例の伝達はできないし、わかったことにはならない、ということです。 このことは、企業であろうと、学校教育であろうと、同じだと思います。僕のような仕事をしていると、よく聞かれることのひとつに、「で、具体的な事例はないんですか?」というのがあります。 教育の話をするときには、みんな、具体的な事例を求めているような気がします、企業であろうと、学校教育であろうと。 でも、具体的な事例を求めているのに、意外に「実践を具体的に知ること」「実践を具体的に伝えること」にこだわっている人は多くないように思います。いかにも人をわかったような気にさせる箇条書きの記述 - それは認知的資源を省力化するには重要ですが - それだけで、その場を分かった気になってはいけない、と思います。 あなたの実践、伝わっていますか? --- 追伸. 形式知化しない記憶は、すべて失われる運命にある(家訓)。 2004/06/08 ニューヨークのレストラン ふつう観光でニューヨークに出かけると、宿泊するのはタイムズスクエアあたりのホテルということになるでしょうか。ミュージカルを見るのなら、だいたいはじまるのは8時から。ということになると、結局は、この近くで食事でもということになりますね。 でも、実はこれがくせ者のように思います。このタイムズスクエアあたりのレストランというのは、概して混んでいるのですね、プレシアターの食事をとる観光客で。そして、非常に高い。また高いわりには、少なくとも僕の経験に関する限り、あまりヒットした経験がないようにも思います。 というわけで、ニューヨークのレストラン情報を紹介。
2004/06/04 没頭 研究には没頭する時期が必要だと思うのです、自分のアタマでゆっくり考えて、自分なりの結論をだす一瞬が。そして、独りでふんばる時間が。 確かに研究者を支えるコミュニティの力は重要です。それは不可欠といってもよい。自分の研究がどこに定位しているのか、そして、その方向性は逆行していないのかを把握するためには、他者のまなざしは必要です。 でも、あーでもない、こーでもないと人に言われ、そのたびごとに、考えをめぐらせていては、研究はできない気がするのです。まして、そのたびごとに研究計画が揺れてしまっては、前には進みません。 もちろん、独善になることは避けなければなりませんが、あまりにも早い時期に他者の声に研究を委ねすぎるのは、かえって逆効果だと僕は思います。まして、愚痴をこぼすのはまだまだ早すぎる。 自戒をこめていいますが、ここはぐぐっと踏ん張って、自分の中で自信がもてる「何か」 - それは多くの場合、「たたき台」でしょう - それを確立してから、他者のまなざしに耐える努力をしようではありませんか。歯を食いしばって、敢えて独りでいようではありませんか。 かつて僕の恩師は、「研究者は最終的には孤独である」と言いました。 折しも季節は夏、夜は長いですね。 2004/06/02 研究者の名前は ちょっと前に、「僕はカタカナに弱く、洋モノ小説などの登場人物の名前を覚えられない」と書いたが、例外があることがわかった。それはね、海外の研究者の名前です。 映画とか小説だと、本当に全く覚えられないのに、なぜかは知らないけれど、研究者の名前だけはハッキリとフルネームで言えるんですね。しかも、彼らの論文の発行年までだいたいわかっちゃう。「あー、それはスットコドッコイの1980年の論文だよね」のように。 どうなっているのだろう、僕の記憶機能は。 2004/06/01 ニューヨーク大学 / BMW North America 小松さん@日本イーラーニングコンソーシアム / NTTラーニングシステムズのお取り計らいで、「企業内教育・高等教育・官公庁eラーニング活用実態調査」に部分的に参加させてもらった。
今回、僕らが訪れたのは、ニューヨーク大学とBMWの2つの組織。両組織がネットワークをどのように活用し、どのような学習を学習者に提供しているのかヒアリングした。
下記は、そのメモである。
追伸1. |
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