|
2000/05/01 ブレア・ウィッチ・プロジェクト 最近、自宅での療養期間にずいぶんビデオを見た。熱がひいてからは、本当に退屈な日々を過ごしていたので、それくらいしかすることがなかった。外にもでれないしね、とても、ケツ痛くて。 悪いの? ケツ痛くて ビデオは随分見たんだけど、その中でかなり気に入ったのが、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」っていう短い映画です。あらすじを簡単に話すと、以下のようになります。 「魔女(ウィッチ)がでて人が失踪させてしまう」といういわくつきの森に、ある映像学科の3名の学生がドキュメンタリーを撮りにいき、その伝説通り失踪してしまう。その後、彼らの姿は見つからず、唯一見つかったのは、彼らの残したカメラとテープだけ。そして、彼らが命を落とした末に残ったドキュメンタリー、そのものがこの映画「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」なのです。彼らが手持ちのハンディカムや16mmで撮影した映像そのものが映画であるだけに、映像はガンガン手ぶれするから、はっきり言って、具合の悪い人とか三半器官が弱い人は見ない方がいいと思う。ケツの痛い人は、見てもいいよー、大丈夫だよー。 地図をなくしてしまい、だんだんと奇怪な現象が彼らを襲いはじめ、だんだんとサイコになっていく3人。しかし、それでも最後まで、「魔女=恐ろしいもの」は姿を現しません。つまり、映像として僕らが見ることのできるのは、<恐ろしいもの>そのものではなくて、<何かを恐ろしがっている三人の学生の醸し出す恐ろしさ>なのです。簡単にいうと、この映画では「人の恐ろしがっている様子」に僕らは恐ろしさを感じてしまうってことですね。ここらへんが演出として非常に工夫されているなぁと僕は思います。 考えてみればさ、人間が「あるモノ」を見て感情を動かされるっていうのは、その「モノ自体」が「リアルなつくり」をしていることだけじゃないと思うんです。たとえばさ、これは誰かが言っていたことなんだけど、本当にリアルなものが人間の感情を動かすっていうのなら、「スーパーマリオブラザーズ」なんて、オーバーオール着ているチョビ髭のイタリア移民がぴょーんと飛んでいる方がいいってことになる。でも、それじゃダメなわけで、「対象がリアルである=人の感情を動かす」っていう命題は、常に成立する命題ではないことがわかる。 この映画には、最後まで「恐ろしい対象」はでてこないんですよね。これが万が一、ハリウッド系のメイクをした魔女なんかがでてきたら、すべてがぶちこわしだと思います。 この映画の怖さっていうのは、僕らにとっては<不可視>なんです。しかし、当事者の3人は確実に怯え、恐怖に震えているが故に、僕らにその場の「怖さ」が<可視的>になるというのでしょうか。つまり、「モノ自体はリアルじゃない=登場すらしない」んだけど、そのモノに対する人間の反応がリアルであるが故に、結局、そのモノもリアルに僕らに恐怖を感じさせちゃうんですね。 こういう映像いいなぁ。見たあとに、いろいろ考えたくなっちゃうもんね。
2000/05/03 大学は変わる 今年から本格的に「高等教育でのメディア利用」を対象とした研究プロジェクト2つにかかわることになった。ひとつは「BASQUIATプロジェクト」であり、ひとつは「FUN@HAKODATEプロジェクト」である。 「BASQUIATプロジェクト」は、高等教育におけるゼミナール形式の授業、つまり学習者同士が「あーだこーだ言いながら」学習を行うような形式の授業を支援するシステムを開発するプロジェクトである。後者の「FUN@HAKODATEプロジェクト」は、今年から新設された「はこだて未来大学」で行われるプロジェクトであり、大学の正規のカリキュラムとそれを支援するためのCSCLツールの開発プロジェクトである。 このようなプロジェクトにかかわる関係で、最近、高等教育関係の先行研究をレビューしたり、実際に高等教育のシステムをWebで探索することが多くなった。 近年、高等教育機関では、インターネットを用いてオンラインの学習コースを開設したり、遠隔講義を配信するなどの試みが本格化している。高等教育機関への入学者数が、同年齢就学者数の50%を超えるという「ユニバーサルアクセス」の段階に達している先進国では、高等教育機関が最新のIT(Information technology)を用いて、外に開かれようとしているのである。もちろん、単に入学者が増えたから大学が外に開かれようとしているのではなくて、そこにはドロドロとした政治的な原因もあるのだが、いずれにしても、今、大学が変わろうとしていることは間違いない。そして、この動向は今後不可逆に加速しながら進行していくことだろう。 今、大学は激動の時代を迎えている。
2000/05/04 コミュニケートできるオタク ゴールデンウィーク 毎年のことながら、ことさらやることのないままに、数日間を過ごしてしまった。今日はお部屋を久しぶりに掃除した。信じられないゴミがでてきて、自分でもびっくりした。僕一人が生きていくことで、これだけの資源が浪費されている。考え見たら罪深いことだ。そうだ、生きることはそもそも罪深いのだ。ゴミ袋3つを捨てにいくときに、地面を見ながら、地球にゴメンと独り言を言った。 ゴミを整理しながら、テレビをつけた。いわゆる「ながら視聴」という奴だ。テレビ東京で「テレビチャンピョン」をやっていた。今日の勝負は、「パン王座」決定戦らしい。数人の女性たちが「パン」に関するオタクなクイズに挑戦していた。都内のどこそこのパンの名前を、においをかいだだけで当ててしまうといった類の、彼女たちの半分イカれた能力に感心してしまった。 オタク 言うまでもなく、自分にとって価値のあると思われる事柄に異常なまでに専心してしまうような人々のことを指すコトバである。時にバッシングされながら、時に持ち上げられながら、「オタク」は、これまで様々な人々によって語られ、様々な人々の生き方として実践されてきた。うちの研究室にはオタクが多い。電波オタク、ビデオオタク、マンガオタク。大学院はオタクの巣であるらしい。かくいう僕もオタクの部類に立派にはいってしまうらしい。研究室のある人にそう指摘されて、びっくりしてしまった。 僕はよく思うことがある。 オタク、万歳!
2000/05/05 ファンタジア2000 クラシック音楽とアニメーションが融合したディズニーの不朽の名作で、今から遡ること60年前につくられた映画と言えば、知る人ぞ知る「ファンタジア」である。サントリーミュージアムのアイマックスシアターで、先日、その映画を見た。 正確には、今回、日本のアイマックスシアターで上映されていたのは、ファンタジアそのものではなく、ファンタジアの一部のパートと、今回新たに製作された7つのパートからなる、新作「ファンタジア2000」である。 「ファンタジア2000」はどういう映画か? もっとも簡潔かつ誤解のないように説明するならば、それは映画というよりはコンサートに近い。誰でも知っているクラシックの名曲に短いアニメーションがつけられており、観客は、それを「耳」で見て、「目」で聞くことができる。 第一楽章はベートーベンの「運命」。無数の蝶の飛来と、天から降り注ぐ「神々の光」のアニメーションが「運命」を奏でる。第二楽章は「ローマの松」。クジラたちの群が天に向かっていく姿は、見ていてなぜか懐かしい。おそらく、クジラのテクスチャから類推するに、この作品が最もCGを多用している。 第三楽章は、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」である。テンポのよいガーシュウィンの名曲にのせて、ニューヨークの街角にたたずむ人々の生活が描かれる。第四楽章は、ショスターコーヴィッチの「ピアノ協奏曲」。アンデルセンの童話「スズの兵隊」の心温まる物語が描かれる。 第五楽章は、動物の謝肉祭。フラミンゴがヨーヨーを持ったら、という奇想天外な発想がこの物語のオモシロサである。第六楽章は、ご存じミッキーマウスの「魔法使いの弟子」。この第六楽章に限り、60年前につくられたファンタジアからの映像が用いられている。第七楽章は、「威風堂々」。ノアの箱船を先導する役目をもったドナルドダックの恋物語。なぜかホロリとくる。第八楽章は、「火の鳥」である。「生」と「死」という重厚なテーマが、美しいアニメーションで語られる。 音楽に映像をつけるというのは、意外に難しいことである。あまりに音楽に同期させてしまうと、それは単調な映像になってしまうし、かといって、リズムをすべておっぱずすわけにもいかない。ディズニーの映像づくりのうまさは、この同期のバランスにある。完全に同期させるわけでもなく、かといって、おっぱずすわけでもない。コンテンツづくりを志す人には、見ないでいることが許されない映像だと思う。 ファンタジアは、いわゆるディズニーの「わかりやすい」アニメーションではない。いわゆる勧善懲悪のストーリー展開を期待すると、確実に裏切られる。 ファンタジアは大人のアニメーションである。
2000/05/8 変身 先日、あるテレビ番組を見ていたら、最近、「セルフポートレート」とか「セルフビデオ」とかいうものが女性の間で流行している、とのことだった。「女優写真」とか言うらしい。 「昨日までの自分」とは違った「演出された自分」。例えば銀幕の向こうに生きる「女優」のように、専門のスタッフに囲まれ、カメラのファインダーに映りたい。そんな欲望が一部の女性の間で広まっている、とのことだった。希望者の多くは20代の女性であるが、中には40をすぎた「おばさま」もいるらしい。 一般に、人間は相反する2つの欲望を有していると言われている。ひとつは「恒常なるものへの欲望」、簡単にいうと「昨日までのようにかくありたい」という願いである。もうひとつは「変身への欲望」、すなわち「昨日までとは違った自分になりたい」という願いである。たいていの人は、この相反する欲望の狭間を往還しつつ生きている。 「終わりなき日常」を「まったり」と生きていくのが現代で称揚される生き方であるならば、「まったり」した「終わりなき日常」を越境し、変わりゆく自己を確認しようと欲するのが、現代人の欲望。 生けとし生きるものの欲望に終わりはない。
2000/05/10 ブギーナイツ 映画「ブギーナイツ」を見た。 フキュウの名作「サタデーナイトフィーバー」を思い出させるような、ある青年の切ない青春の物語である。サタデーナイトフィーバーが「ダンス」であるならば、ブギーナイツは「ポルノ」だ。にっちもさっちもいかないフツウの青年が、ナニがでかいことだけを取り柄に、ポルノ男優になり、大成功を納める。しかし、成功は長く続かない。ポルノ男優もよる年並みには勝てない、といったところであろうか。自分を脅かす若手男優の影、そして体力の衰え。 まぁ、映画に関してはそんなところだ。ポルノというテーマ自体は、教育現場では御法度だが、今の高校生とかに見て欲しい映画だ。日常に押しつぶされそうになっていた青年がポルノ監督にスカウトされ、「これなら僕にでもできる」というところは、思わず涙がでるし、映像そのものも、どこか切なく訳もなく懐かしいものなので、親しみがわくと思う。 それにしても、この日記って大学のサーバーにおいてるんだよなー。「ポルノ」とか「ナニ」とかってヤバイのかな。お縄になったら、イヤだなぁ。「大阪大学の大学院生、ポルノとナニのホームページでお縄」とか東スポの見出しにかかれたら、カッコ悪いよなー。ま、いいか、開き直っちゃえ。 悪いの?
2000/05/14 ライオンキング ちょっと前のことになりますが、劇団四季のライオンキングに行って来ました。今年の北海道の帰省中にビデオを流し見したことが理由になって、僕はそれ以来ディズニーにはまっており、ディズニー病ここに結実せり、という感じです。 みなさんご承知のとおり、アニメーションの「ライオンキング」にはライオンとかサバンナの動物がたくさんでてきます。これをミュージカルにするためには、幼稚園のお遊戯会じゃないんだから、「お面」つけて「ウララーウララー、ヨロレイヒー」って歌っても全くリアリティがないわけです。どうにかして、「野生動物」を演じなければならない。つまり、「演出」をしなければならないわけですね。 この演出を手がけた人は、ジュリー・テイモアという女性で、彼女はかつてインドネシアや日本に留学し、現地のストリートで行われる演劇や淡路の文楽などを学んだ経験をもとに、ライオンキングの演出をしました。マスク、パペット、そうしたものを利用して積極的に「ミュージカルとしてのライオンキング」をつくっていったのです。今回、僕が楽しみにしていたことのひとつに、この「演出」を自分の目で見ることがあったのですが、とても満足しました。 このミュージカルのもうひとつのスゴイところは、その音楽です。レボ・Mというおじさんが担当しているのですが、これがまた「アフリカアフリカ」していて圧倒されます。プロローグの「サークル・オブ・ライフ」、軽快なリズムで虚無哲学を歌った「ハクナ・マタタ」、ムファサの亡霊に勇気づけられるシンバを表現した「He Lives in you」、ACT1からACT2の橋渡しをする「One by One」。どの音楽をとっても、なぜか身体が動いてしまう。まさにアフリカ万歳といったところです。 どうでもいいことなのですが、僕はよくモノスゴクよい音楽に出会うと、その音楽が「ヘビメタ」であっても「パンク」であっても、「モーニング娘」であっても、なぜか涙がでてきます。ライオンキングの音楽もそのひとつでした。特に、ナラが歌う「Shodow Land」はよかった。 とにかく感動しました、ライオンキング。「ディズニーは子どものためのおドウゲ」であると馬鹿にする諸兄もいらっしゃると思うのですが、そんなことはないです。特に、演出と音楽に興味のある方には、是非、おすすめします。
2000/05/16 たまには研究のこと 4月の辛かった時期が終わり、最近、比較的ゆっくりとした時間を過ごしていました。よって日記も「エンターテイメント」系のことばかり書いているのですが、なんか5月の日記を読み返すと、「中原ご乱心、狂い遊び」って感じなので、たまには研究のことも書きます。 今、3つのことに取り組んでいます。ひとつは、BASQUIAT Projectの準備です。機材の調達などの事務処理やら、評価実験の計画などを具体的にたてています。ふたつめは、「教師の語りプロジェクト」のインタビューを開始しています。このあいだ、ある現場の先生にインタビューにいってきました。今、インタビューをすべて文字におこしています。この「おこす」ってのがツライね。まさに苦行です。悟り開くぞ、バカヤロー。最後は、はこだて未来大学プロジェクト(FUN@Hakodate Project)の研究計画です。これに関しては、明日から函館に出張です。研究ミーティングがあります。 ま、そんなところです。そんなに忙しいわけではありません。でも、これらのプロジェクトが本格的に動き出しちゃって、さらには4月に狂ったように書き散らした原稿が戻ってきたりしたら、また死にかけ人形になってしまうでしょう。いいじゃん、たまにはゆっくり過ごしたって。ウンコ水はもうイヤだ。 そういえば、ある人から聞いた話なんだけど、「忙しい」の「忙」という字は、「人」を「亡ぼす」と書くんだって。まだまだ亡びてたまるかってーの。
2000/05/17 「中原」風 かつて高校生の頃、僕はある人にこんなことを言われたことがある。長い間忘れていたんだけど、ふとしたことがきっかけで思い出した。
何が「キャハハ」だってーの。 でも、どこかに書きましたが、僕は「何か」をやるときに、必ず「作戦」「プロジェクト」だとかをたてちゃいます。それで楽しんじゃう。自分の中に「作戦参謀」をおいて、それを「執行部」が実行する。そういう小さなコビトを自分の中につくってしまうのです。きっと、そうしたコビトたちの「振る舞い」が「中原風」に見えちゃうんでしょう。 たとえば、本屋に行きます。本屋にいくと、僕の中では「本屋特攻隊長」が永い眠りから覚めます。それで、「どこの分野の本から見始めるか?」を決めるんですね。だいたい僕がまともに本屋にいくと、放っておけば3時間くらいはすぐにたってしまいます。「ダイエット本」から「サブカルチャー」、はてには「最新手術手技」まですべての書棚の前を歩き出すんです。でも、欲しいすべての本が買えるわけじゃないですね、僕は貧乏なので。今度は「予算執行委員会」が招集されるんですね。で、ケンケンガクガクと議論をはじめます。口角泡のオヤジたちが「その件ついては云々」とか言って騒ぎ出しちゃう。 ここまで書いてきて、なんか自分は「分裂」しているのかなぁという気にもなってきました。もしかしたら、危ないのかもしれません。でも、このあいだイッセー尾形のエッセイを読んでいたら、こんなことが書いてありました。
他者観察の厳しい目をもつイッセー尾形ならではのコトバだと思いました。 悪いの? 分裂してて
2000/05/18 函館にて 今年からはじまる研究プロジェクトのために、函館にきている。今日から3日間の滞在だ。今日は、今年開学したばかりの「はこだて未来大学」に行って来た。ここに来るのは、もう3度目になったのだけれども、僕が前にきたときは、土台だけができており、完成した建物をまだ見ていなかった。 はこだて未来大学は、以下のような教育理念をもった新しい公立大学である。
ひとめ見ただけで、モノスゴク先端的な教育理念であることがおわかりになると思う。高等教育機関で、これほどラディカルな教育理念を掲げている大学を僕は知らない。そして、この教育理念を支えるために、大学の建物の建築様式もラディカルである。どんな授業にでも誰もが参加できるようにデザインされたオープンスペースは、学生同士、学生と教員のコミュニケーションの可視性を高め、それへの参加を促進するだろう。 新しい大学像の模索は、今、はじまったばかりであり、その歩みは確実に前進している。
2000/05/23 ファンタジア 先日、「ファンタジア」を大学のネットワーク講義室の大画面でみました。ビデオを借りてきたんです。ファンタジアは、今から60年前につくられたディズニーのアニメーションです。「音楽家の想像だにしないアニメーション」を音楽につけることになっています。まぁ、映像自体はちょっと古いなぁと思ってしまうところもあるのですが、でも、今から60年前って言ったら、あーた、日本では「欲しがりません、勝つまでは」「贅沢は敵!」とかやっていたわけです。要するに、エンターティンメントにお金をかける余裕なんてなかったし、それを楽しむ余裕すらなかった。このあたりは、妹尾河童さんの「少年H」でも読んでいただければわかります。当時の日本のエンターティンメントコンテンツのレベルを考えると、やはりファンタジアはスゴイと言わざるをえません。 ファンタジアで演奏されていた音楽は以下のとおりです。 非常に恥ずかしいことですが、「春の祭典」と「くるみわり人形」に関しては、このファンタジアで初めて聞きました。 閑話休題。 最近、大阪に帰ってきてからというもの、「やるべきこと」が怒濤のように押し寄せてきて、非常に忙しく過ごしています。各プロジェクトが本格的に動いてきたって感じでしょうか。また、いろいろと将来のプランなんかも考えなければならないことが多くて、少し疲れていました。 ディズニーは、そんな癒しが必要な人には、もってこいなんじゃないかな。今日もディズニー借りにいこっ。
2000/05/24 平等、この不平等なもの 先日から、あるMLで「平等」という概念が話題になっている。 たとえば、あなたなら以下の一連の問いに対して、どのように答えるだろうか?
まぁ、よく言われる話であるが、平等には「機会の平等」と「結果の平等」という2つの平等概念があって、民主主義社会では、「前者」はなるべく保障されるべき、だという社会的合意がなされている。つまり、「機会の平等」は保障するけれど、「結果の平等」は保障できないよってことになっているわけだ。 この2つの概念は、たとえば、大学入試でたとえるとわかりやすい。「機会の平等」っていうのは、「一応、どんな人でも分け隔てなく入試が受けられる」という意味での平等。「結果の平等」というのは、「一応、どんな人でも大学に入学できる」ってことだ。もちろん、後者が社会的に保障されていないのは言うまでもない。また、細かいことを言えば、前者だって、「社会階層の再生産」っていう問題があるから、純粋に、すべての人に「機会の平等」に保障されているわけじゃない。親の経済階層によって、子どもの経済階層、進路のトラッキングはある程度決まっちゃってるからだ。 平等という概念について考えると、僕はいつも学部時代のある講義で聞いた話を思い出す。おおよそ不真面目かつ凡庸な能力しか持たぬ学部生であった僕だが、その授業のことだけは、今もハッキリ覚えている。それは、苅谷先生という先生の担当していた教育社会学の授業であった。
能力に基づく差別、つまり「能力に従った不平等」というのは、彼によれば「英語圏」では「アタリマエ」の話で、そんなものは「差別」でも何でもないってことなっているらしい。しかし、日本人のメンタリティから言えば、それはどこか引っかかるところがある。先に、「運動会の順位付け」と「能力別クラス編成」の例を出したが、どちらの例も、かつて日本の教育界で問題になったことのある例だ。「人間の能力が人によって違うこと」を公表することは、日本ではタブーとされているらしい。どこか、「すべての人間の能力は平等だ」と思いたいメンタリティが残されているのだろう。 「人間の能力が人によって差異があること」という明らかなファクト、誰の目から見ても疑いようのない真実を、敢えて<隠そう>とすることで、「すべての人間の能力は平等」である、という<神話>を子どもに徹底させようとする教育。しかし、いつの日か、子どもはそうした<神話>が文字通りの神話であることを、いつの日か知るだろう。否、身をもって感じるときがくる。 平等、この不平等なもの 時に僕は考えさせられる。
2000/05/34 ver.2 プリクラの向こうを透かしてみれば 先日、久しぶりに「プリクラ」を撮る機会があった。 「プリクラ」というと、僕が学部2年か3年の頃に流行したのかなって思っているんだけど、駒場時代にあまり友達がいなくって、プリクラを一緒にとる相手がいなかった僕としては、それがいつ流行したんだか、はっきりとは覚えていない。 ただ、駒場キャンパスの生協食堂とかで、数名のオトコとオンナが「ねーねー、プリクラ撮りにいこうよー」としゃべっているのを耳にするにつけ、密かにこの「プリクラ」なるコトバの甘美さに憧れ、そして同時に、「プリクラする男女たち」に「淡い殺意」を抱いていたのを覚えているから、流行したのはきっとそのころだったのだと思う。 さて、そんな「憧れ」と「殺意」に満ちた僕の「プリクラ」に対する思いを語っていても、仕方あるまい。気分を入れ替えて、「こないだプリクラ撮った話」をしよう。 で、こないだプリクラ、撮ったんだけどさー。すごいねー、最近のプリクラは。まず、何がスゴイって、マニアックなんだよ、撮影がはじまってから印刷するまでが。
古屋一行風に言うならば、「あーあー、僕はやったよ」。こういう「アタラシイ機能」は試してみなきゃ、気が済まないからさ。知らないうちに、こんなに進化していたなんて。昔のプリクラなんて、「撮影」してシールに印刷されるのを待つだけだったのにさ。何てことだ、これじゃ、俺も「オマエも年とったな」って言われるよなぁ。 それにしても、Photoshop的なこうした機能を、「今の若いもん」と来たら、なんなく使っているわけだよね。楽しんでいるだろうさ、あーあ。スゴイねー、最近の若い奴らときたら。マニアックだよねー、だって、こうした機能って、昔は何十万円もかけてPhotoshopとPhotoshopが動くコンピュータ買って、ようやく楽しめる機能だったわけでしょ。それを、あーた、たかだか300円だからね。それも、汎用のデバイスじゃないから、Photoshopみたいに「勉強」しなくても、マシンのウィザードに従っていれば、誰でもできるわけでしょ。すごいねー。 思うに、こりゃ、たとえば大学における「情報教育」なんてものは、意味をなさなくなるんじゃないか。LinuxとかWindows workstationとかいうX端末で、クソ難しい操作を覚えてさ、ようやくメールをだしたり、画像合成したりする必要なんてないもんね。そんなもん、とっくに経験してるってーの。メールだったら、ケイタイがあるわけで、画像合成ならプリクラで十分じゃん。 D.A.Normanっていう「泣く子も黙る」ようなヒューマンインターフェースの研究者がいますが、彼が「The Invisible Computer(見えないコンピュータ)」という本の中で、「未来のコンピュータは見えなくなる」って言っているんです。つまり、今みたいに、クソ難しいけれど何でもできる<汎用のコンピュータ>は、もう時代遅れだと。そうじゃなくって、ある活動に特化した誰にでも使えるコンピュータが次世代の標準になるだろうって言っています。他にもいろいろ言っているんだけど、ここでは紹介しません。要するに、「コンピュータらしくないコンピュータ」が次世代だっていうわけ。使っていて、「おや、これにコンピュータさんが鎮座ましましていらっしゃるのかい?」って思わせてしまうような「見えないコンピュータ」がこれからの標準なんだってことだね。 「ある活動」に特化したっていうのは、どういう意味かっていうと、メールならメールしかできないコンピュータ、画像合成なら画像合成しかできないコンピュータ。でも、そういうコンピュータは、活動を制限している分、簡単なインターフェースをもつわけで、誰にでも触ることのできるわけですよ。つまり、「見えないコンピュータ」なわけですね。 プリクラの向こうを透かしてみれば、<未来>が見える 大学の「情報処理」の授業、危ないと僕は思うよ。存在意義を問われることになるんじゃないですか? 今までは情報処理棟とかいうところに、専用回線をひいて、ワークステーションならべて授業してたでしょ。僕も学部で経験があるけど、めちゃめちゃ苦労して、使い方覚えた記憶あるよ。スキャナーを動かすだけで、一苦労。めちゃくちゃ長い命令文を入れなくてはダメだった。おまけに、「プログラム相談員」とかいうのが、変な野郎が多くてさ。相談しにいったら「アンタ、そんなのもわかんないの?」って顔しやがって。オマエ、仕事だろってーの、バカヤロウ。 前にも研究室で<ある事件>があってブチぎれて書いたことがあるけどさ。今まで大学っていうのは、コンピュータなどの情報処理リソースを占有して管理していたわけです。コンピュータとかソフトとかは高価なものだったし、シロウトには管理できないようなものだったから。でも、今、街にでてみてください。コンピュータなんかより簡単でいて、それでいてコンピュータなみのことができる<見えないコンピュータ>があふれているでしょ。ひとたび電車にのれば「i-mode」や「EzWeb」でメールとかホームページを見ている若者がいる。ひとたびゲーセンにいけば、高度な画像合成をなんなくやっている女子高生がいるわけさ。じゃあ、あと、大学に残されたものって、何なんだろうって考えると、そりゃ、専用線くらいしかないでしょ。それも今年からいろんな専用線サービスが始まっている。あと2年もしたら、確実に一般家庭にも専用線が普及し始めると思うんです。じゃあ、そうなったら、大学に残されたものって何? 研究室にあるコンピュータの存在意味って何ですか?ってことになるでしょ。 要するに何を言いたいかっていうと、大学がコンピュータを占有して管理してる時代は終わろうとしている。コンピュータを占有して管理して偉そうにできた、つまりは特権的な位置を占められていた時代は、確実に終わろうとしているんです。そういう時代が終焉を迎えようとしているのに、まだコンピュータの上にあぐらをかいていると、未来が見えますね、悪いんだけど。 プリクラの向こうを透かしてみれば、<未来>が見える
2000/05/25 <知>はつながっている すべての<知>には「つながり」がある 「エウレーカー」と叫んだ古の哲学者よろしく、僕が、この発見と呼ぶにはあまりに稚拙で凡庸な<発見>をしたのは、大学の4年生の頃だった。「生けとし生きるものすべてがつながっている」と主張したのはブッダであったが、僕にとってみれば、つながっているものは、「生けとし生きるもの」だけでなく、彼らの生み出した<知>という名の社会的構成物にとっても、それは言えることなのであった。 今から考えて、当時の僕は本だけはよく読んでいたように思う。大学から電車で一時間の郊外のマンションに住んでいた僕は、この往復2時間の時間をすべて読書にあてていた。また、大学の講義の合間、雨が降っている自室の深夜。とにかく、僕は本ばかり読んでいた。当時、僕が読んでいた領域は、哲学、教育学、心理学、社会学などの領域であったが、当初、読書をはじめたばかりの僕にとっては、すべてが個別の領域に思え、それらの本を読むたびに、アタラシイ知識が自分の中に獲得されているのを感じていた。すべては個別的であり、独立しており、それ故に、新しかった。 発見というコトバに値せぬ<発見>が訪れたのは、ある梅雨の日の電車の中だった。いつものように北千住駅で大量の人々が電車をおり、運良く僕は座ることができた。そして、いつものように読書を始めたのだが、まさに、そのときにひらめいた。 すべての<知>には「つながり」がある 今まで独立だと思われてきた個別の<知>、そんな<知>に突然スレッドができてきた。あの書物で示されていたAという知見は、実は、全く違った種類の書物に示されていたBと、背後仮説を共有しているのではないか。つまり、この両者の知見をだした研究者の世界観は共有されていたんじゃないか。これらの研究は、同じ「つながり」の中にあったのではなかったか! 急いでイエに帰って、他の文献もガシガシ読んでみた。すると、よく精読してみると、さっきの例だけじゃなかった。あとは、今まで個別だった<知>に連続的にスレッドができていくだけだった。 人は学ぶ、否、学ぶことができるのだ
2000/05/26 ジベタリアン ジベタリアンって、かなり昔に流行ったコトバですが、最近、僕の住んでいる住宅地にも、この「ジベタリアン」たちが多くなってきて、困っています。ジベタリアンっていうのは「地べた(ジベタ)に座り込む若者」のことですね。 僕の住んでいるところは、大学裏手の閑静な住宅地で、半径100メートルにコンビニが4つもあるっていう恵まれたところなのですが(僕のマンションは全く恵まれていないウサギ小屋)、ここにもジベタリアンがあらわれはじめました。 コンビニの駐車場、道の傍、マンションのエントランスの葺き石とかに、何人かで座りこんで話をしてるんだよねー。特に今日みたいな金曜日には、どうみても中学生とか高校生にしか見えない奴らとか、幸が薄そうなカップルとかが、コンビニでモノを買って、地べたに座って、タバコをすいながら、モノ食ってるわけですよ。 いやー、俺はどこまで落ちても、これだけはしないぞー って思います。 なんか、今日は説教オヤジだったな。そいつもブルーなことだ。
2000/05/27 クリエイター養成インターネットスクール こないだ、ある人と話していて話題になったことのひとつに「インターネットスクールって増えてきたよねー」っていうのがありました。まぁ、随分前からその手の「スクール」はあったのですが、「ちゃんと社会で通用するような価値のあることを学べるスクール」っていうと、あんまりなかったのかなーって気もします。 かの人いわく、今週号の週刊アスキーに「クリエイター養成インターネットスクール」っていうのが載っていたっていうので、僕も見てみました。なかなか気合いがはいっているので、ここで紹介します。
このインターネットスクールは、「漫画」とか「小説」とか、そういういろんなクリエィティヴなことの方法論を学べるっていうのがウリらしいですね。社長は、秋元康。講師陣は、すごくって、江川達也から、湯川礼子。まぁ、誰でも知っているような有名どころがズラリです。この講師陣を見ただけでも、なんか興味はわいてくるんだけど、本当に彼らが教えてくれるんでしょうか。 もちろん有料で、1コースで3万円。1コースあたり、1万人の受講を見込んでいるらしい。ということは、1コースあたり3億円ってことになりますね。おいおい、儲かるなぁ、すごいなぁ。 授業は6回あって、3ヶ月で終了するみたいです。6回目の最後には、卒業制作があって、優秀な作品を講師が選んで、人材データベースに登録してくれて、デビューを待つってことらしいです。 教材は、テキストとCD-ROMとWebのコースウェアがあるみたいですね。あと、受講者同士のコミュニケーションもサポートしていて、チャットとかBBSでコミュニケーションするみたいです。 まぁ、これがどうなっていくのかはわかりませんが、とにかく、ヴァーチャルでいて実体をもたない学校というのは、今年あたりから日本でも確実に増えていくものと思われます。高等教育では、ヴァーチャルユニヴァーシティって言って、アメリカでは学位をだすところも随分あります。僕の興味のあるのは、そうしたスクールでは何が学べるのかっていう「学習の質」の問題なのですが、あまりそういうことは、まだ議論に上らないみたいですね。ヴァーチャルユニヴァーシティについては、「Essay from Lab」のコーナーに「変貌:高等教育の未来」という雑文を書いてみましたので、お暇な方は読んでいただけると嬉しいですし、コメントなんかをいただけると、なお嬉しいって感じです。
2000/05/29 夢見る頃を過ぎれば
中学生の頃 昨日、ある先生とお会いするため、久しぶりに千里中央にいった。千里中央は、日本万国博覧会の都合で、1970年代から開発が進められた「ニュータウン」で、日曜日ともなれば、非常に多くの人々でにぎわう。街のつくりは非常に人工的で、僕はあまり好きになれないが、それでも日曜日の昼下がり、ベンチに腰掛け、道行く人々の様子を見ていたり、隣に座った中学生たちの話しに耳を傾けるのは、毎度毎度新たな発見があって面白いものである。 昨日は、僕の隣に数名の中学生が腰掛けた。なにやら、道行く女の子の集団に声をかけ、ナンパをしている模様。どうも成功しないらしい。「なんでやろ」「なんでやろ」と口々に話している。日曜日の昼下がりに、人工的な街であるが故に過度に明るく開放的な空間で、突然声をかけられて、ノコノコ中学生についていく女の子がいたら、お目にかかりたいってーの。 中学生の頃、僕は何をしていただろう 千里中央をあとにし、おうちに帰って、中学生の頃の写真を何度見つめていても、その答えは、今の僕にはわからなかった。
2000/05/30 アイ・アム・肩こりマン 僕の持病は「肩こり」だ。ハッキリ言って、すごすぎる。肩こりがひどいときには、腕が肩以上に上がらなくなり、さらには息が苦しくなってしまう。こうなったらお手上げ。ヴァンテリンを3重塗りして、その上にシップをして、あとはシンナリと寝るしかない。 思い出してみると、肩こりがひどくなったのは、お勉強を本格的にはじめることになった中学3年生の頃からだ。最初は、「肩こり」なるものがどのようなものであるか、わからなかったため、自分の肩に感じる痛みが、人に伝え聞く「肩こり」であるとは思わず、「地縛霊」に取り憑かれたのかと思った。 大学入試の頃には、「肩こり」がさらにひどくなった。高校3年生の頃には、自分に一日10時間以上の勉強を課していたため、僕の肩はふくれあがって、肩パッド状態になってしまった。これでは勉強にならぬ、ということで、僕は当時売り出されたばかりの「肩たたきマシーン(2万円くらい)」を親にねだった。いや、半分脅したのかな?
センター試験のときや二次試験のときは、「馬が使う消炎剤」を肩に塗ったくり、その上からサロンパスを肩一面にしきつめ、試験会場に向かった。試験場で僕のまわりに座ることになってしまった受験生たちは、エライ迷惑だったろうと思う。僕の受験番号の前後の人は、なぜか合格者名簿にはなかった。ごめんね。 今日は肩こりがひどい。帰阪して以来、やらなければならないことが、どんどんたまってきていて、処理不能状態に陥っているからだろう。今日は、思い切って、潔くイエに帰ろう。自分の身体を守るのは自分だ。潔さが必要なんだ、こういうときは。
2000/05/31 Untitled
外は雨。 閑話休題 最近、ある方からお誘いをいただいて、新たな研究プロポーザルを書くことになった。今回のお話は、本当に理論的なお話で、今までやってきたフィールドでの知見をもとに、認知理論や学習論の理論的考察をしてみないか、というお話だった。僕としては、お誘いをいただけたことが非常に嬉しく、それからというもの、アタマが「よじれて取れちゃう」ほど「ひねりまくって」いるのだが、大学院に入ってからというもの、「理論からの実践ヅクリ」はしてきたものの、「実戦からの理論的考察」からは少し距離を置いてきたので、この課題は、非常に難しい。まぁ、ゆっくりと考えてみようと思う。 今日はおうちで、そんなことを「あーでもない、こーでもない」と考えていたら、どうにもムズムズしてきて、訳もなくローソンに行って、トイレマジックリンを買ってきた。そろそろ綺麗にしないとな。 再度、閑話休題 ローソンのレジのところで、ふと横を見たら、花火が置いてあった。線香花火もあったし、色とりどりの手持ち花火もあった。 花火? いいじゃない 北海道旭川では、花火は夏の始まりと終わりを意味していた。7月末に「北海道新聞社」の花火大会があって、8月10日頃に「北海タイムス新聞社(もう潰れた)」の花火大会がある。 そういえば、中学生や高校生の頃、夏はよくみんなで花火をやった。ついでに缶ビールを買って、どこかの空き地に集まったものだ。秘め事みたいで面白かった。その時々で変化する花火の光に照らされた各人の顔は、なぜかオトナめいて見えた。ジッタリンジンの「打ち上げ花火」とかいう局が流行っていた頃だった。 花火? いいじゃない 北国育ちラテン系の血が騒いできた。そうだ、花火をやろう。思い立ったら、すぐ実践!。ゴタゴタ言うまえに、具体的に行為しろ! 花火やるぞ、花火やるぞ、花火やるぞ |