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結局、5月も怒濤のように目の前を時間が流れていきました。こないだは、研究ミーティングに出席するため函館に出張をしたりしました。おそらく、年度がかわって各種のプロジェクトが本格的に動き出したってことも<忙しさ>につながっているんでしょう。 さて、<忙しさ>と書きましたが、<忙しい>の「忙」という字は、「心を亡ぼす」と書きます。こういうことを言うと、「オマエも年とったなー」とか「どっかの小学校の朝会の校長挨拶みたいー」とか言われるので、あまり言いたくないのですが、まぁ、そういうことらしいですね。「心が亡びる」のは耐えられません。たとえ、時間的に余裕がなくても、明るく楽しく生きたいものだなぁと思います。 ところで、今年から僕は2つの高等教育研究プロジェクトにかかわります。ひとつは、「Project BASQUIAT」というやつで、もうひとつは「Project Sicence@FUN-HAKODATE」という奴です。 前者の「Project BASQUIAT」は、高等教育機関における遠隔学習を支援するCSCL環境を開発して、評価するというプロジェクトです。簡単にいうと、ネットワーク経由で講義というか、学習の素材が映像で配信されるんですね。これは、オンデマンドで配信されます。で、学習者はこれを見たアトで、この内容について議論を行うんですね。この議論は、今回開発したネットワークソフトウェア上で行うわけです。もちろん、このネットワークソフトウェアも配信される映像コンテンツも、学習者同士の議論が起こりやすいようにデザインを施してあります。 後者の「Project
Sicence@FUN-HAKODATE」は、「はこだて未来大学」っていう新しくできた大学で2年間にわたって行われる実践的な研究プロジェクトです。 さて、以上、僕が今年かかわる研究プロジェクトを簡単に説明しましたが、このページの目的っていうのは、「僕のかかわる研究プロジェクト」について説明することじゃありません。単に、こうしたプロジェクトにかかわる関係で、僕が高等教育について「ほんの少しだけ勉強をしはじめていて、それがオモロイナーと思っているので、ここで話したいですよー」って感じです。 じゃあ、このページの目的はっていうと、ひとつめの目標は、「高等教育機関が、今、情報技術を用いて変貌しようとしている様子」を物見遊山的に見ていこうっていうってことです。最近、大学っていうのは本当に「めまぐるしく」変わろうとしているんですね。うちの大学は、どうだか知りませんが、数ある大学の中には、そうした努力を着々と進めている大学があります。今回は、その様子を少しだけ垣間見てみましょう。 目標の2つめは、「情報技術を用いて変貌をとげようとしている大学の現在」に対して、いくつかポイントをしぼって、考えなければならないことを提示することです。「情報技術で○○が変わる」っていうのは、ハッキリ言いますが、「プロパガンダ」であることが多いですね。そこには、概して問題や考えなければならないことが生じてきます。そういう論点を示すことが、2つめの目標だっていうことです。 じゃあ、目標が見えてきたところで、それではいよいよ本論に入りますが、第一の目標は、情報技術を用いて変わろうとしている大学の様子を垣間見ることでした。その具体的な様子を見る前に、ひとつ問いをたててみましょう。 なぜ情報技術を用いてまでも大学は変貌しようとしてるのでしょうか? それが以下に述べるような大学を取り巻く社会状況が複雑にからみあっているっていうのが本当のところなんじゃないかなって思います。
1の「少子化」っていうのは、簡単ですね。大学入試の主たるターゲットである18歳人口が減ってるってことです。第二次ベビーブームと呼ばれる世代が大学にはいってくる時代は、もう過去のものです。その時代は、大学に入学希望者が殺到したんですが、いまや、大学の中には「倒産」している大学や、「倒産寸前」の大学もあると聞きます。要するに、経営が成り立たなくなる危険があるってことです。いくら教育の世界に属しているとは言え、大学だって「商売」なのですから、経営が成り立たなくなるのはヤバイわけです。どうにかして、大学に学生を「呼び寄せ」なければならない。 そういう時に大学がとる「てっとりばやい戦略」で、今や、あまり通用しなくなっている戦略に、「学科の名前をクールにする」っていうのがあります。中身は変わらないんだけど、名前だけかっこよくしちゃえってことです。僕らが大学にはいる時代は、「国際関係学科」とか「総合政策学科」だとかいうがムチャクチャ流行していました。今は「福祉」とか「医療」「臨床」だとか「コミュニケーション」だとか「情報」ですか。まぁ、こういうのはハッキリ言って流行です。学生の方もタイガイ賢くなっているので、ずっと通用する戦略とは言えないような気もします。もっとキチンとしたヤリカタで学生を増やす必要があるわけです。 次に、2の「大学のマス化」っていうのは、大学が「大衆化(マス化:Massification)」しちゃうってことです。要するに、「大学には希望する人ならば誰でも入れるようになる」ってことですね。こういう状態を、「ユニヴァーサルアクセス(Universal Access)」って言っちゃうオッサンもいます。大学へのアクセスが「ユニヴァーサルアクセス」になっちゃうと、大学自体の性質も変わってきます。つまり、「量的拡大は質的転換につながる」っていうことです。 ところで、かつて大学っていうのは、「エリート」の養成機関でした。「末は博士か大臣か?」っていうコトバにあらわされるように、要するに、「大学に行きさえすれば、博士か大臣になる=エラクなる=エリートになる」と思われていたし、事実、一部のエリート大学の卒業生たちっていうのは、国の中枢を担うエリートになっていったわけですね。 その時代に大学に行けた人っていうのは、限られた裕福な人ばかりです。ものすごく少数だった。ところが、大学の希望者が増えて、今や18歳人口の半分近くの人が大学に行くようになると、つまり、ユニヴァーサルアクセスの時代に大学が入ってくると、「エリート養成機関」であった大学の性質そのものが変わってきます。大学にいくことは、なかば「万人の義務化」しちゃって、そこで教えられる知識っていうのも、「市民教育的」で「多様」なものに変わってくるわけですね。そうした「多様」で「市民教育的」な知識を、どう伝達するかっていうことが問題になってきます。 次に、3の生涯学習のニーズの高まりっていうのは、よく言われていることです。要するに、定年を迎えた「おじさん」とか、子どもを育て終わった「おばさん」とかが、「学びたいよー」って言っているってことです。今までは、公民館とか青年大学とかでも、そうしたニーズに応えてきたのですが、もっと「専門的な知識」と言うんでしょうか、そうした知識が求められているんでしょう。「学ぶことは何人たりとも犯されぬ万人に開かれた権利」なので、それはそれでよいことだ、と思います。さっきは「市民教育的な知識」が大学に求められていますって書いて、今度は「専門的な知識」って書いたので、「矛盾してんじゃん、オマエさー」って、ご指摘をなさる方もいらっしゃるかもしれませんが、細かいことを言うと、この矛盾こそが大学の抱えるジレンマなんですね。つまり、「簡単だけども専門的な知識」を伝えなければならないっていうジレンマに、大学は応えることを同時に要請されているってことです。大学のかかえるこのジレンマ関しては、すこし細かいことなので、これくらいにしましょう。 ところで、これは私的なことなのですが、僕の出身地は北海道の旭川っていうところです。たまには帰省とかもするのですが、帰省するたびに、この「生涯学習のニーズの高まり」っていうのは、ひしひしと感じます。カルチャーセンターとか、企業がやっている学習会とか、それこそ青年大学とかに行っている、あるいは行こうとしている人の、なんと多いこと。まさに、生涯学習万歳!って感じなんですね。今の生涯学習を支える世代には、「学びたくても学べなかった人」がたくさんいます。うちのオトンやオカンもその一人なのですが、やはり「学びたい」んでしょう。そういう人たちの欲望に、大学が応えようとしているのかもしれません。 以上、大学が取り巻く状況っていうのを簡単に書いてきました。要するに、まとめると、以下のようになるでしょうか。
じゃあ、次に、実際に情報技術を用いて大学がどのように変貌しているかっていう例をいくつかあげていくことにしましょう。こうした試みは、北米を中心に加速度的に広まっており、いまや全大学の半数をこえる大学が、ヴァーチャルユニヴァーシティを展開するに至っているようです。一方、日本ではどうかっていうと、これも加速度的に進行しています。いくつかの大学では、実際に試験運用がなされていますし、中には実用に踏み切っている大学もあります。ただ、まだ日本の大学のレベルっていうのは、北米に比べて大きな格差があることは否めません。 ところで、一口に「情報技術」を用いると言っても、具体的には「どんな技術」なのでしょうか。そして、そうした技術でどんなことがおこなわれているのでしょうか。
1の「ストリーミングビデオ」っていうのは、インターネットを経由してサーバーから各インターネット端末に随時送信されるようなビデオ映像のことをいいます。これは遠隔講義の配信に使われています。最近では、「ブロードバンド」って言って、帯域の太い「ネットワーク」が注目されています。現段階では、まだまだ家庭の回線で満足に受信できるっていうのは、無理があるかもしれません。 さて、ヴァーチャルユニヴァーシティで使用される「情報技術」の大枠がご理解いただけたと思いますので、いよいよ、以下、具体的に見ていくことにしましょうか。
さて、以上、具体的なヴァーチャルユニヴァーシティをいくつか見てきました。市民講座の一環として行われているものから、実際にWebのコースウェアで単位を取得可能なもの、あるいはマスターやドクターなどの学位まで取得可能な大学もありましたね。あと、ヴァーチャルユニヴァーシティへのアクセスに関しては、専用のソフトウェアを自前で開発しているところもありました。このあたりに関しては、まさに玉石混淆といった感じですね。
日本では、高等教育機関より、どちらかといえば、こうした民間の動きの方がはやいです。企業の中には、ヴァーチャルユニヴァーシティに注目し、開発を密かに進めているところもあるようですね。 それでは最後に、このページの2つめの目標である「ヴァーチャルユニヴァーシティの問題点や今後考えなければならないこと」をザーッと見渡してみることにしましょう。問題点には、少なくとも以下の3点があげられます。
1の「人的リソース」ですが、これはもう自明でしょう。Webのコースウェアやストリーミングビデオを誰がつくるんですか、誰が開発するんですかって話です。技術的には、タイシタコトはないですが、「大学の先生」とコンタクトをとって、教材をデジタル化して、課金システムを整えて・・・・っていうのは、タイシタ仕事量です。これを毎日開発していくような人的リソースはバカになりません。今の大学には、おそらく、こうした人的リソースとして専門の職員を雇っている大学はないんじゃないか、と思います。もちろん、大学がそうした人的リソースを自前で抱えるのではなく、企業にアウトソーシングするのかもしれません。が、いずれにしても、莫大な開発費がかかることは目に見えています。 2のファカルティ・デヴェロップメントも1の問題に似ています。要するに、講義を配信したり、コースウェアの開発環境がそろったとしても、大学の先生がそれを使えなければ話しにならないわけです。当然、大学の先生がこうしたメディアを学ぶ機会を作らなければなりません。たとえば、ブリティッシュ・コロンビア大学では、WebCTの使い方を専門職員が大学の先生に教える機会をつくっているとのことです。 3の学習の質の問題は、僕としては一番問題であると思っています。要するに、コースウェアや講義などの「パッケージ化された知識」を受け取るだけで、どんな学習が成立するんだろうっていう根元的な疑問があるわけです。要するに、学習者が何を学べたのか、っていうことが、キチンと評価されていないんですね。ハッキリ断言しますが、「ヴァーチャルユニヴァーシティの事業としての成功」っていうのは、「ヴァーチャルユニヴァーシティ上での学習がよいものであること」とは、全く別の次元の話です。 4の学位の無効化の問題も深刻だと思われます。こうしたヴァーチャルユニヴァーシティにアクセスし、一定の「知のパッケージ」を受け取ることで簡単に学位がとられるようになると、これまで一定の価値をもってきた学位そのものが無効化する危険が非常に高いってことです。事実、北米では「Ph.D」の価値がモノスゴク下がっています。 以上、今回は高等教育とメディアってことで、大学を取り巻く状況、および、ヴァーチャルユニヴァーシティというアタラシイ大学の取り組み、また、それに関する問題点や課題などを述べてきました。 高等教育がはじまってまだ500年くらいの歴史しかありません。制度化された高等教育ってことになると、わずか数百年です。大学の未来、それは明るいものなのでしょうか。大学はどこに流れていこうとしているのでしょうか。今後も注目したいところです。 |