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2018.10.9 06:44/ Jun

絶対安全圏で「念仏」唱えてんじゃねーよ!(5歳・チコちゃん風):保苅実「ラディカル・オーラル・ヒストリー」書評

 ケネディ大統領が、わたしたちのコミュニティを訪問した
 キャプテンクックが、ここにもあそこにも登場する
 石は木訥に語り出し、蛇は雨乞いをしはじめる
  
  ・
  ・
  ・
  
 これは、オーストラリア北部、グリンジとよばれる小さなコミュニティに住む長老ジミーじいさんの語りである。常識ある人ならば、ただちに、これらが「ホラ」であろうと想像がつく。
 しかし、これらの命題に真剣に向きあい、「歴史学とは何か?」「誰が歴史学者なのか?」を考察しきった若き学者がいた。
  
 歴史学者「保苅実(ほかり・みのる)」である。
 彼は、オーストラリア・グリンジのコミュニティに長きにわたって滞在し、アボリジニの人々の歴史観を、オーラルヒストリーとしてまとめることに見事に成功した。
  
 そうした編まれたのが「ラディカル・オーラル・ヒストリー」という書籍である。
  

  
 ▼
  
 しかし、この本「ラディカル・オーラル・ヒストリー」を手に取るときは、覚悟をしてほしい。
 はっきりいって「ただものではない」
  
 この本の目的が、アボリジニの先住民族の歴史観、言語観をあぶり出すだけならばーしかし、それとて、実に興味深い知見にあふれているがー僕は敢えて「ただものではない」と述べなくてもよかったかもしれない。
 
 この本で意図されていることは「それだけ」ではない。
  
 わたしは歴史学はまったくの門外漢だから、下記は印象に述べるが、保苅実が本当に試みたかったことは、
  
 ・歴史とは何か?を書き換えること
 ・歴史学者の役割とは何かを書き換えること
 ・つまりは、誰が歴史学者なのか、という問いに答えること
  
 であったと考える。
 すなわち、まずは、本書は、歴史学そのものへの挑戦を含む本だ。そのこと自体で、もはや「ただものではない」
    
 そして、これだけで終わるのならばーそれとて、常人の行える知的営為をはるかに超えているー僕は「ただものではない」とは言わない。
   
 保苅がやりたかったことは、もうひとまわり大きなところにある。
 それは、
  
 ・人文社会科学の語り方を変えること
 ・人文社会科学のテクストのあり方を変えること
 
 ではなかったかと思う。
 おおげさかもしれないが、僕は、本書を読みながら、それを感じた。
  
  ▼
  
 実際に保苅実は、著者あとがきの中で咆哮する。
  

 人文社会系の学問の中で、主体の解体、声の複数性、真理の不安定性、内破する知といった「かけ声」が「念仏」のように唱えられてひさしい。
  
「念仏」のようにと僕が揶揄するのは、こうした主張が、実に安定した制度的場所から、モノロジカルに、そして、あまりに明瞭に語られ続けてきたことの違和感である。
  
 声の複数性、真理の不安定性などについて「議論すること」をやめ、むしろ、それを実際に「実践」し、本当に「知を内破すること」に挑戦したのが本書である。
  
(同書 p307より引用)

  
 つまり、保苅は、人文社会科学の(たぶん)おエライ先生たちは、「主体の解体」とか「声の複数性」とかいう「念仏」を絶対的安全圏(おそらくは制度としての大学の研究室のアームチェア)から唱えているだけで、それらに向き合っていない、と糾弾しているように思える。
  
 一方、保苅がこの本でめざしたのは「声の複数性」や「真理の不安定性」を「実践すること」だ。
 実際に、この本で保苅は、彼自身の身体を先住民族のネットワークのなかに溶け込ませ、その中で生活することを通して歴史を紡ごうとしている。その歴史とは実に不安定なものであった。かくして保苅は「真理が不安定であること」をテクストをもって主張する。
  
 さらには、本書の構成自体が、「声の複数性」にあふれてものに編み直している。
  
 本書の冒頭は、こんな記述からはじまる
  
「ども、はじめまして、ほかりみのると申します」
  
 軽妙な語り口に、一瞬、読者はあっけにとられる。
 が、それは長くは続かない。
 やがて、保苅自身が、自らの身体をかけて紡ぎ出したオーラルヒストリーが展開する。この先住民族ジミーじいさんの語りを後景にしながら、先住民族にとっての「歴史」とは何かを考察していく。この考察は圧巻だ。
  
 そして、どぎもを抜かれるのは、その後である。本書は、保苅が博士論文としてオーストラリア国立大学に提出したものであるが、この博士論文の審査員からのコメント、審査の文章が、その後に展開する。
  
 もうおわかりだろう。
  
 本書は、先住民族ジミーじいさんの語りを、幾重にも「多角的な声」によってあぶりだすことを意図しているのである。これが「声の複数性」の実践だ。
  
 ▼
  
 本書を読み終えたあと、しばらく、めまいがした。
「ほとばしる知性」とは、こういうことをいうのだと思った。かつて20年前に、真木悠介の「気流のなる音」を読んだときの衝撃を思い出していた。
  
 そして、かえすがえすも残念に感じたのは著者・保苅実が、本書を執筆した数日後、2004年にオーストラリア・メルボルンで、不治の病に倒れていたことであった。
 学術書を読んで、涙を流すことは、あまりないのだけれども、ポロリと涙がこぼれ落ちた。まだ、語りたかっただろうな。歴史を実践したかっただろうな、と。
  
 しかし、思い直すこともできる。
 保苅の残した「ラディカル・オーラルヒストリー」は、2018年、岩波現代文庫として再出版され、より多くの人々に読まれることになった。
  

  
 かくして、14年の歳月をへて、保苅の精神は、後続する世代に引き継がれるだろう。
  
 保苅はいう。
  
 書くことは「劇場」であり、書き手は「演技者」だ。劇場の語法に従うなら、書き手の目標は「効果をもたらすこと」にある。
   
 これは、保苅実が愛した歴史学者グレグ・デニングの言葉だ。
  
 あなたの言葉は「効果をもたらしています」
  
 そうつぶやいて本を置いた。
 安らかにお眠りください。
  
 そして人生はつづく
  
  ーーー
  
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