2005.6.29 14:05/ Jun
昨日の日記で、僕は自分のことを「オデカケ魔」だと書いた。
「落ち着きがない」と言い捨ててしまえば、「ハイ、それまでよ」になってしまうのだけれども、どうも僕は、少しでも暇な時間ができたら、血が騒いでしまって、オウチでじっとしてはいられないところがある。
よせばいいのに、ヒマを見つけると、フラフラとすぐに遊びにでかけてしまう。オウチでノンビリできない。
得をしているのか、損をしているのか、よくわからないのだけれども、確かに僕にはそうした傾向がある。
ところで、こうした「自分の性行はどこで形成されたのか」ってことを考えると、それは子ども時代にまで遡るのではないかと思う。
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僕の生まれた家庭は、お世辞にも決して裕福な家庭ではなかったが、「ヒマさえあればオデカケをすることをヨシとする家庭」であった。
ヒマさえあればと書いたが、今から考えると、父や母が好きこのんで「オデカケ」をしていたかは疑わしいところがある。
日々追い立てられる生活の中、何とかかんとか、ヒマを見つけて、自分たちはオウチでゆっくりと身体を休めたかったにもかかわらず、彼らは、僕や妹を外に連れ出そうとしていたのかもしれないと思う。今になって思う。
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当時、僕の父SATOSHIと、母YUKOは、いわゆる「共働き夫婦」であった。何とかかんとか2人で、細々と家計を支えていた。
現代の都会でこそ、「共働き」はアタリマエのことである。「マージナルなもの」を「マージナルである」とは感じえないことこそが、都会に生きるということである。
しかし、今から20年前の – 冬の日にはソリを引いた馬が道をパンパカパーンと走っていた、北海道の片田舎では、それは決してアタリマエのことではなかった。それはマージナルなこと、そのものであった。
そのことで、彼らがずいぶんと嫌な思いをしたり、後ろ髪をひかれる思いをしたことは、北海道に18年生きた僕にとって、想像に難くない。
様々な人々のまなざしの中で、精一杯自分たちなりには頑張っているつもりでも、「自分たちは人並みに子どもを育ててはいない」のではないか、という思いが、脳裏に浮かんでは消えていたのではないかと思う。
そして、そんな思いがあったからであろうか、彼らは、週末になれば僕や妹を、外に連れ出した。
ふだんは「鍵っ子」としておうちでお留守番をしたり、時には、兄弟2人で夜を過ごしたりしなければならなかった僕たちに、贅沢はできないけれど、せめて人並み以上の経験をさせたいと願ったのではないかと思う。
「外」といっても、ディズニーランドみたいなテーマパークがあったりはしない。あるときは散歩、あるときは登山。近くの公園で弁当を食べるだけのこともある。ただ、とにかく、僕たちは、「外」でずいぶんと遊んだ。
これらの出来事が、いわゆる世にいう「オデカケ」という言葉に値しないものであれば、「近所の散歩」といってもよい。でも、僕たちは週末となれば、どこかに連れて行ってもらえた。
前述したように、今から考えると、これらは、彼らが好きこのんでやっていたことではなかったようにも思える。
日々の家事、仕事、育児に追われ、細々とした山道が断続するような「綱渡りの生活」を送らざるをえなかった彼らにとって、どんなに休日が貴重なものであったろうか。今、同じような生活を送るに至り、僕には、その大変さが身にしみてわかるような気がする。
そして、自分のカラダに刻まれた「オデカケ好き」という確かな傾向を、今あらためて認識するにあたり、当時の彼らのことを – 今の僕の年齢とそれほど変わらない – 当時の彼らの心中を想わざるを得ない。年齢を重ねるということは、「自分の親を対象化すること」ができる、ということなのである。
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目を閉じると、家からすぐ近くにある観音公園での「週末の昼下がり」を、思い出す。23年前に他界した祖父BUNZOも、今や90歳になる育ての親の祖母KIYOも、一緒だ。決してお世辞にも暮らし向きは楽ではなかったが、僕はそんな子ども時代を過ごした。
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そして、こんなオデカケの果てに、今の僕は、いる。
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