2006.4.16 22:53/ Jun
先日、皇居一周の散歩の途中で、国立近代美術館で催されている「藤田嗣治展(ふじた・つぐはる)」に立ち寄った。入り口付近には、長い列ができるほどの盛況ぶり。
周知のとおり、藤田は、戦前で唯一の世界で成功した日本人画家。彼の作品がこれだけの規模で集まることは数十年ぶりであり、それに期待した人々が押し寄せているのだと思う。
藤田嗣治展
http://www.momat.go.jp/Honkan/Foujita/index.html
藤田嗣治は「異端の人」であった。
東京芸大を卒業し、黒田清輝らの勢いが強かった日本の美術界に愛想をつかし、パリにわたったのが27歳の頃。モディリアーニ、ピカソらと親交を交わした。
「女」を主要な題材としたパリ在住時代。特に、彼の主要な主題のひとつである「裸婦」は、「乳白色の肌」と「陰翳」によって特徴的かつ優雅に描かれている。これによって、当時のパリの画壇を一世風靡した。
その後、南米にわたりラテン系の画風を取り入れたり、帰国しては、いわゆる「日本的なもの」を泥臭く描いたりした。きっとパリで成功をはたした彼の目には、南米も日本も、独自の色彩をもった特徴ある世界にうつったのだろうな、と思った。第二次世界大戦中には、従軍の画家として戦争画を数多く描く。
その画風の推移は、まさにトマス=クーンのいう「パラダイム」という言葉を思い起こさせる。そのときに自分がいた場所、状況に応じて、彼の作風はどんどんと変わっていく。
戦後、彼は戦争画を数多く描いたことにより、日本画壇から非難、糾弾される。その戦争責任は重いとされ、画壇から追放された。「私が日本を捨てたのではない・・・日本に捨てられたのだ」と言葉を残しながら、自分自身を最初に認めてくれた国、フランスに旅立った。
晩年はインテリアの仕事をしたりする一方、子どもを描いた。彼が描いたのは「乳白色の肌」をもつ子ども。それは、かつて彼が描いた裸婦の延長線上にあるように思う。生々流転する「作風」・・・最後にたどり着いたのは、結局、彼が若い頃に苦労して生み出した、あの「色」であった。
今回の展覧会では、そうした彼の作風の展開に応じて作品が公開されている。その作風の変転からは、藤田嗣治の人生が見て取れるようで、展覧会場を出る頃には、その激しさにすっかり圧倒される。
絵は口ほどに物をいう。
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