2016.3.21 06:30/ Jun
僕は、割と、読書の幅は広い方だと思います。
今日の読書は「恐山ー死者のいる場所」(笑)
そう、あの下北半島にあり、死者が降臨?するという「恐山」が今日の一冊でした。
この書籍は、南直哉さんという曹洞宗のお坊さんが書かれた書籍です。新書なので、すぐにどなたでもお読み頂けるかと思います。
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結論から申し上げますが、本書は僕にとって、とても興味深いものでした。
その理由は「恐山」に本当に死者は降臨するのか、どうなのか、という紋切り型の問いに対する答えが、本書に存在していたからではありません(笑)。恐山にまつわるスピリチュアルな現象についての記述を本書に期待なさる方は、きっとよい意味で肩すかしを食らいます。
本書を僕が面白いと思った理由は、そうではなく、「恐山に出会い、煩悶する著者の姿」が大変興味深かったからです
著者の南さんは、曹洞宗の中心寺院である永平寺で20年修行を積まれて、紆余曲折あり、2005年から恐山で過ごしている方です。
永平寺というエリート中のエリート寺院を出て仏教の知識をたくさん身につけている彼が、恐山という「日本の土俗信仰に仏教の皮をかぶせたもの(p104)」に出会い、そこで様々な苦しみを担った人々と出会ったときに、彼は煩悶します。
恐山に出会う人々は、「動かしがたい、圧倒的な想いの濃度と密度」ーリアリティを背負って、ここにわざわざ来ています。その彼らに対して、既存の仏教の理論や教義をふりかざしても、全く意味がありません。
そうした人々の苦しみをどのように受け止め、どのように声をかけたらよいのか。南さんは煩悶します。
「今まで考えてきた枠組みの中には、恐山の濃厚なリアリティを収納する器がないことを早々に痛感させられた(p105)」
「ただの教義理論や修行経験が通じる世界ではない。一から考え直さないとだめだ(p105)」
さらに南さんの煩悶はつづきます。
「そもそも原理主義というものが有効なのは、現実が非原理的な世界であるときです。しかし、原理主義が現実になった瞬間、原理主義は現実を壊してしまいます。ならば原理主義などなくてもいいではないかと思うかもしれませんが、常に現実の構造は曖昧で、それを批判するための道具として原理主義は必要になってきます(p119)」
似ている。
あまりに似ている。
この「どっちつかず」で「割り切れない」思いに、僕は思わず、共感してしまうのです。
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僕はこの新書の読書を通して、「原理と現実」「理論と実践」についての思考を巡らせました。本題である「恐山」はどこいった?という感じですが(笑)、それはどうかお許しを。
なぜ原理や理論は存在するのか?
答えは今日も風に吹かれている
そして人生はつづく
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