2015.12.14 12:49/ Jun
「君が話し始めるまで、待つよ」
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先日、ふと立ち止まった本屋さんで「中井久夫の臨床作法」という本を手に取りました。
中井久夫先生は、神戸大学医学部・教授(精神医学)をおつとめになった希代の臨床家で、「日本の精神医学を根幹から変えた」と評される方です。
と、、、門外漢の僕が述べるのは、いささか無理があるかもしれません(笑)。中井先生の業績、および、その評価に関しては僕は門外漢ですが、しかし、僕は彼の「ファン」のひとりであります。
中井先生のご著書の多くを拝見するに、著書に綴られている言葉ひとつひとつに、「人が人を援助するとはどういうことか?」を考えるヒントがあるような気がします。より俯瞰的な立場から、「人と人がかかわるとは何か?」について深い洞察をなさっているような気がするのです。
本書は、中井先生に薫陶を受けた数十名の精神科医、医療従事者の方々、中井先生から受けた薫陶や、中井先生とのエピソードが収録されています。中井先生のお人柄やお考えがよくわかるエピソードでばかりで、思わず、ふっと力が抜け、思わず笑みがこぼれます。
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例えば、同書において精神科医の星野さんと山中さんは、こんな風におっしゃっています。
星野氏「中井先生は、患者さんと逢っていて、病気の話にならないですね。全然別の話になって、「君、この頃、ちょっと太ったね」とか、「方が丸くなったねぇ」とか、「だいぶゆったりしてきたんじゃない」とか。
そういう話をしているうちに、患者さんの方から「こんなことがありました」「○○へ言ってきました。面白かったですよ。先生も一度行ったら」とそういう話題になっていくのです。病気の話にはならないのです。
山中氏「でも、それが結局、病気を癒していくことにつながるのですよね」
(星野氏・山中氏の会話より「中井久夫の臨床作法」より引用)
診察では、本来、病気の話をあれこれしなければならないのに「病気の話をしない」というのが、まことに興味深いことです。しかも、それが「結局病気を癒していくこと」につながる。
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精神科医の山中さんは、こんな風にもおっしゃいます。
「こういうふうに心がけているということ自体が、もう問題なのです。〜をしないでおこう、とか、〜でいこう、とか。
中井先生は、心がけていらっしゃるのではなくて、ごく自然に自ずから(一部中略)、患者さんがいつのまにか信用してくださるようになってしまうのです。
それが大事なことで、何かを教えてあげようとしていたり、こういうことは言わないでおこうとしていたり、そういう構えがまずいけないのです。患者さんは、そういうことは見事に見抜かれますから」
(山中康裕氏の会話より「中井久夫の臨床作法」より引用)
「心がける」というレベルではなく、「自然に」かつ「自ずから」、患者さんが信用してしまう状況をおつくりになれるというところが凄いところです。
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個人的には、斎藤環さんの述懐も印象的でした。
私は、中井が「我が国の精神医学」を「カルト化」(特定の理論が支配する状況)から守ってくれた恩人であると考えている。それが、中井がいかなる原理主義的姿勢からも距離をとりつつ、「高度な平凡性」を志向していたためであろう。
(斎藤環さんの言葉「中井久夫の臨床作法」より引用)
斎藤さんは、中井先生の発揮する「高度な平凡性」を維持するためには、「理論的な複雑性」が逆に不可欠である、とします。
理論を突き詰めて、突き詰めて、それらに精通しているからこそ、特定の理論にしがみつくこと(原理主義的姿勢をとること)をしなくてすむのだろうな、と思いました。このあたりは、精神医学ではないですけれども、実践現場をもつ学問ではよく起こることですね。まことに今日深いことです。
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今日は中井久夫さんの臨床技法についての新刊を紹介させて頂きました。門外漢なので、ポイントをハズしていたらすみません。が、くどいようですが、中井さんの仕事からは、対人援助職・対人支援職にたずさわる方が、学べるポイントが多々あるように、僕は感じました。
最後に中井先生の言葉から
何よりも大切なのは「希望を処方する」ということ
(中井久夫)
そして人生はつづく
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