2015.4.8 05:52/ Jun
ここ数年、様々な場所で、フィードバックの現場に立ち会う機会があります。
ここでいう「フィードバック」とは、いわば「鏡」のような行為です。自分では気づいていないけれど、他者には気づいてしまうような行為・思考の癖などを他人が語り、相手に返してあげる行為です。もちろん、十分に心理的安全と信頼を確保したうえで、このような作業は行われます。
「僕には・・・XXさんの・・・・は・・・・のように見える」
実際の場面は、研修での360度フィードバックの場面や、相互にフィードバックしあうグループでの話しあいのプロセスということになります。
年齢があがればあがるほど、本人には「言いにくいこと」が増え、かつ、「褒められること」が減ってくる傾向があります。
しかし、本人がそのことを知らないままでは、本人のためになりません。ポジティブも、ネガティブも含めて、フィードバックは、見えたものを「鏡」のように本人に返します。比喩的な言い方が許されるのならば、それは「贈り物」のようなものです。
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さて、フィードバックの現場を拝見していて、時折気になることがあります。それは妙に「フィードバック慣れしている人」と「フィードバック恐怖症に陥っている人」が時折散見されることです。
前者は、フィードバックを何度も経験していて、もう、言われることに慣れっこになっている方によく見受けられます。どんなフィードバックを返そうとも、
「そうだよね、、、わかってるんだけどね、デヘ」
みたいなかたちで、てんで聞く気がありません。これはこれでフィードバックが「刺さらない」ので、困った者です。
一方、「フィードバック恐怖に打ち震えている方」もいらっしゃいます。何を他人から言われるか怯え、貝のように自分を守っています。腕組みをして、自分の身体を抱きしめていることから、その様子はすぐにわかります。先ほどの「フィードバック慣れ」も困るのですが、こちらもこちらで、せっかく貴重なフィードバックが、あまりにも強固な鎧にはばまれ「刺さらない」ので問題です。
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フィードバックは、「正しく進む」ために存在します。その背後には、
「どんな推進力(イニシアチブ)でも、フィードバックのないものは絶対的に腐敗する」
という古からの智慧があるのかもしれません。実際、みなさんのまわりを見回してみてください。
フィードバックループが機能していないものからは、ときおり、腐敗臭がしませんか?(泣)
オマエは、もう死んでいる!?(死語)
自戒をこめて申し上げますが、しなやかに、しかし、確実にフィードバックを「受け止めること」ができたとしたら、幸せなことのように思います。
ポジの意見には喜び、ネガには一次的には心理的葛藤を覚えるのだけれども、「言いにくいことが自分に届くうち」は、まだまだ幸せなことなのかもしれません。
そして人生は続く
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