2014.8.26 06:52/ Jun
大学に入って学んだものは、たくさん!?あるのですが、僕が大学で学んだものの中で、もっとも印象に残っているのは、「知識」でもなければ「スキル」でもなく、ましてや「プロジェクト」でもありません。
それが何かと申しますと、ワンワードで申しますと「思考の癖」です。「癖」というと、何だかあまり「よい言葉」のように聞こえませんが(笑)、別の言葉を用いるのであれば「習慣」といってもよいのかもしれません。
今から20年前、何人かの先生方にご指導いただき、僕は、今になっても用いることのできる「思考の癖」のようなものを身につけたような気がします。
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僕が会得した「思考の癖」はいくつかありますが、その中でもっとも印象に残っているのが「メタ思考の癖」です。
「メタ」というのは「より上位の」ということですので、「メタ思考の癖」というのを、もう少し日本語!?になおすと、「俯瞰的な思考」といってもいいかもしれません。
たとえば、こういうことです。
今、仮に、Aという事象に対峙し、それを「問題」だと認識している人々がいるとします。この場合、この方々は「Aは問題だ!」と思っているのですから、通常であるならば、この方々が、次に向かうべきは「問題Aに関する問題解決」です。
経済的合理性が求められるシャバの世界では、「問題の認知」は「問題への解決」への入口です。
問題がすでにわかっているのにもかかわらず、問題の解決に向かわない人は「悪」です。
しかし、何と言ってもいいのですが、いわゆる「メタ思考」は、このようにして「ダイレクトに問題解決」には向かいません。いいえ、「問題解決」に向かう前に、一寸だけ、「メタにあがり、問題を俯瞰する」のです。
かわりに何を問うのかと申しますと、
「Aという事象を問題だと認識したのはなぜか? なぜ、わたしたちはAという事象に”問題”のレッテル貼り(ラヴェリング)を行ったのか?」
を問います。
もう少しいうと、
「Aという事象を問題だと認識した、わたしたちが囚われている視座とは何か?」
「Aという事象を問題解決しようとする、わたしたちの認識のうち、歪みがあるものはないか? 本当は覆い隠されているものは何か?」
を問います。このように「問題A」のさらに上部にいったん「上がり(メタ)」、問題Aを見つめる自己、そして視座自身を問うのが、いわゆる「メタ思考」です。
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この「メタ思考」を徹底的に、かつ繰り返し、何度も何度も教えて下さったのは、学生時代、大変お世話になったK先生やS先生です。
「ふーん、中原君はAを問題だと思ってるんだ? それでいいと思うけど、でも、解決に向かう前にひと言聞くけど、いい? そもそもなぜ、君はAを”問題”だとかんがえたの? Aを問題だと認識する自分の前提は何?」
とK先生は事ある毎に、あまり出来の良くない学生であった僕に問われました。
S先生は
「”そんなの常識だ!”という心の声を聞いたら、メタに上がれ! ある物事を”常識”だと考えている囚われを問え! メタに上がれ!」
と指導してくださいました。
おかげさまで、声にだしていうことはありませんが、事ある毎に、僕は、このように物事をとらえ、物事を考える癖がついたようにも思います。
それから20年・・・K先生やS先生の学恩に答えられている気はまったくしないのですが(泣)、彼らの言葉をときに思いだし、今日も大学に通っています。
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僕が大学で学んだ「メタ思考の癖」は、おそらく「就職ウケ」も悪いし、「ほにゃららプロジェクトにゼミで取り組みました!」のように成果も見えにくいし、ましてやソーシャルメディア上に写真やら動画もアップロードもできません。要するに「わかりにくい」。
それはともすれば、「時代の変化」に怯えたり、「社会からの要請」に脅威を感じる「大学人」に「カタルシス」を提供する言説として機能するのかもしれません。
しかし、僕自身は、大学や大学院で学ぶことの意味は、こうした「抽象に向かう思考の癖」「メタに向かう思考の癖」を身につけることだと信じていますし、これからも、今後も、そういう風に学生の皆さんと対峙していきたいと考えています。
たとえ、それが、わかりにくく、カタチや成果が見えにくいものであったとしても。
さぁ、メタに上がれ!
そして人生は続く
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