2014.1.23 07:58/ Jun
大学院・中原ゼミは、テレビ会議を用いて、遠隔地から、様々な中原の共同研究者の方が参加してくれています(遠いときには九州から! 僕は中原ゼミを、「僕と研究上の接点をもつ人々の緩やかな共同体」と定義しています。ですので、いくつかの条件を設けつつも、共同研究者にはゼミを公開しています)。
昨日の大学院ゼミでは、駒場キャンパス・教養学部特任助教の中澤明子さんが、「Problem based learning)で「黙っている学習者」は学んでいないのか?(Remedios, Clarke and Hawthorne(2008)」という英語文献を紹介してくれました。お疲れさまです!&ありがとうございます。
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2000年以降、グループワークやら、アクティブラーニングやら、様々なインタラクティブな学習手法が広がるにつれて、「発言すること」が「自己目的化」する事態が生まれている、と本論文は警鐘をならします。
つまり、グループワークで「発言すること」が「学んでいること」の指標として用いられ、手放しで「評価される」傾向があるのです。「発言をしない人」は(たとえ学んでいたとしても)「学んでいない人」というラヴェリングがなされる傾向がある、ということです。
論文内では、発言していない人がどういう理由で発言せず、また、何を学んでいるのか、いないのかに関して、事例検討をしておりました。
しかし、少し考えてみればわかることですが、「話すこと」と「学んでいること」は、実際は「別の事象」です。
もし、わかりにくいようであれば、「発言すること/発言しないこと」「学んでいること/学んでいないこと」という二軸を縦軸、横軸にとり、4象限をつくってみればわかるのではないでしょうか。
1.発言して、かつ、学んでいる人(エース級ですな)
2.発言しても、学んでいない人
3.発言せず、かつ、学んでいる人
4.発言せず、かつ、学べてもいない人(トホホ)
この整理を踏まえますと、悲しいかな2「発言しても、学んでいない人=くっちゃべってはいても、さっぱり学ばない人」もいるのです。反面、3のように「発言せず、かつ、学んでいる人=黙りこくっていても、学んでいる人」は存在します。しかし、「話すこと=学んでいる」という単純な認識は、この2象限の可能性を、時に捨象してしまいます。
ひと言でいうと、「発言する人=学んでいる人」「発言しない人=学んでいない人」という場合しか考慮に入れない、ということです。それは「発言する人であっても、さっぱり学んでいない人」「発言していなくても、学んでいない人」を見逃してしまう可能性があるということです。
一般に学習科学の知見では、伝統的に、「ふだんは黙りこくっているんだけど、時に、いいことをズバッという人の役割」を重視してきました。
しかし、一般には「黙っている人」の評価は「逆」なのではないか、と思います。むしろ、ネガティブに評価されることの方が多いような気がしますが、いかがでしょうか。
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今日は「発言すること」と「学ぶこと」の関係ついて述べました。
今日の話のコンテキストは、グループワーク、アクティブラーニング、アクションラーニングなどであったつもりですが、今日の骨子は、妄想力を量子力学的に高めれば!?、その他の領域においても、考え得ることのように思います。特に、ハイパーアクティブ、ゴリゴリ前進が称揚される社会においては、「前のめりに発言すること」は求められ、価値をもちます。しかし、「前のめりに発言すること」は必ずしも「有能さ」の指標にはなりえません。
たかが発言、されど発言
皆さんはどう思いますか?
おやおや、TAKUZOが起きてきました。
おや、KENZOのお顔に「赤いポツ」が・・・。
体調ワル夫ちゃんじゃきゃいいのですが・・・。
ここで、ブログ執筆時間のリミット20分になりました。
そして人生は続く
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