2012.11.9 09:37/ Jun
もう10年以上前になりますけれども、学部の時代に「からだと声」に関する演劇関連のワークショップを受講したことがあります。
3日間くらいのワークショップで、たくさんのエクササイズから構成されていました。
以前にも、このブログで書いた記憶もありますが、そのうち、もっとも印象に残っているのは、「声を届けるというワーク」でした。ワークはこんな感じで進みました(ビデオ撮影していたわけではないので、完全に再現できているわけではありません)。
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今、あなたの10メートル前に、3人の参加者が、あなたには「背」を向けて座っています。
あなたは、その3人の参加者のうち「誰かひとり」を決めて、
「ねぇ」
と、一人に向けて話しかけるのです。その一人の「名前」を呼んでしまってはいけません。背を向けている一人に対して、あくまで「ねぇ、ねぇ」と呼びかける。あなたに背を向けている3人のうち誰かひとりだけに「呼びかける」。
背中から呼びかけられた3人は、そのとき考えます。「ねぇ」という呼び声を聞いて「もし自分が呼びかけられたな」と感じたら、手をあげる、というものです。
ワークはたったこれだけ。
シンプルなことは、よいことです。
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このワーク、やってみると面白いもので、自分が呼びかけた人とは「違った人」が手をあげたりします。
「チミチミ、そこで、手あげないでよぉ。僕が呼びかけたのは、チミじゃないんだけどなぁ・・・」
もっとも頻繁に起こるのは、いくら呼びかけても、誰も手をあげない、という事態です。
つまり、「声」がなかなか届かない。
こうなると、しまいにだんだんと焦ってきます。
「ねぇねぇ・・・・(沈黙)。ねぇねぇ・・・・(焦り)やべー」
そのうち、だんだんと腹がたってきて(笑)、もう、ヤケクソ、ヤケのヤンパチ君になってきます。
「ねぇッねぇッ・・・・(沈黙)。ねぇったら、ねぇ。ねぇねぇねぇねぇ。オラオラオラオラ!! 何度も呼んでるんだろが、いい加減にせい!、このアホンダラ」
という感じになってきます。ケツに火がついてます。もはや、ボーボー。
そして、こうなると、もう「ドツボ」です。誰一人として手をあげない。つまり「声」は届かない。
焦れば焦るほど、怒れば怒るほど、声は空中をあてなく飛び交ってしまうのです。
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このワークには、あとにリフレクションもあります。
呼びかけられた3人に、「呼びかけられたときに、どのような気持ちがしたかを答えてもらう」というわけです。
「なんか、声がわたしの背中の前で、ストンと落ちた感じ」
「なんか、焦っていて、みんなを怒鳴っていた感じ」
という具合に、コメントがなされます。
あぼーん。
一生懸命数分間にわたって、呼びかけていただけに、結構、衝撃です。
その上で、「呼びかける」とは何か、「声を届ける」とは何かを考えます。
口をあけて声を出せば、声は発せられます。そのことと「他者に呼びかける」と「他者に声を届ける」は、何が違うのか・・・。「声を届ける」というメタファをもとに、「自己の他者に対するかかわりのあり方」を考えるのですね。
シンプルなワークですが、なかなか、Deepなリフレクションに誘われます。
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このワーク、印象深いことは印象深かったのですが、当時の僕は、そんなもんかいな、とどこかで思っていました。
愉しかったけれど、すぐにリフレクションした内容と関連することが、僕の日常生活で起こったわけではありません。ですので、いつしか、このワークは忘却の彼方にいっていました。
でも、今になって思い起こしてみると、このワーク、「学びを促すこと」にとって、とても本質的なことを扱っているようにも思えます。「声を届ける」というメタファをもとに「学びを促すこと」に関するリフレクションが喚起されます。
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このことに関連して、先日、僕の授業をいろいろ見てくれている、ある方から面白い指摘を受けました。
「中原さんは、学部生に対して授業をしているときと、大学院生に対しているときと、社会人に対しているときでは、呼吸の方法、声の出し方、響き方が違う」
とても面白いですね。思い当たるところがあるようで、ない、ないようである、ようなことですが(笑)、なかなか自分では「意識」しないことです。
でも、ふと考えてみると、確実に「授業のやり方」は変えていることに気がつきます。
もちろん、僕の声も、時に「中空」を「宛てなく」さまよっているかもしれません。願わくば、しっかりと学習者のところに「届く」とよいのですけれど、不肖中原、まだまだ修行中です。
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僕が学部生に授業をするときには、「挑発し、誘う感じ」で声をだしているような気がします。人数が多いことがおおいので、ひとりひとりに声をかけようとは思っていません。
むしろ、彼らの頭上に、「挑発の声」をなげかけているような感じが自分にはあります。その「挑発の声」が頭上で爆発し、ひとりひとりに届くかどうかはわかりません。
学部生は、まだ学問の入り口にたったばかりです。
彼らの常識や思い込みをまずは、揺さぶり、新たな世界に挑発し、誘おうという思いがあります。だから、エネルギーレベルは、もっとも高い状態で、学習者にいろいろな挑発をしかけている。そうすることで、何とか「届けよう」としている。
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大学院生に対して授業をするときには、「自分の頭の中を見せる」感じで、少し「秘密を共有するようなかたち」で授業をしているつもりです。声は「あのさー、と話しかける感じ」というのでしょうか。
彼らは学問のまっただ中にいる。学問の世界には「わからないこと」がたくさんある。僕も「わからないこと」、他の研究者も「わからないこと」を、そのまま届ける。
だから、板書は、もっとも混沌としているはずです。エネルギーレベルは、低く、もっとも日常に近いです。手を抜いているという意味ではなく、もっとも日常に近いかたちで、同じ研究者として、ボソボソと「わからないね」と話をしている。
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社会人に対して授業をするときは、ある一瞬までは、もっとも緊張する時間を過ごします。
「これから何をするのか」
「なぜこのことをする必要があるのか」
「どのように考え、どのように話すのか」
という学ぶことの「位置づけ」と「ルール」をはっきり明瞭に、一人一人に向けて話します。一人でも疑問を持っているようなら、そのあとの学習をはじめないように、心がけます。
必ず、何かを行う前には、ひとりひとりの顔を見て、「位置づけ」と「ルール」が届いているかを確認しようとします。
「これから・・・の目的で、・・・・のやり方で・・・の手続きでワークをはじめます。質問はありませんか?」
と聞くことも、もっとも多いと思います。そして、この瞬間だけは、絶対に「ひるみ」ません。ここだけはしっかりしておく。この瞬間のエネルギーレベルは、マックス振り切れています。
で、あとは、その場の状況にまかせます。ここから敢えて脱力します。むしろ、今度は「届ける」ではなく、社会人の声を「聞く」側に回ることに近いかもしれません。
社会人は、すでに問題関心をもっている。なので、位置づけやルールさえ明瞭に届いていれば、あとは、自分でアドリブで授業を共同構成する主体になってくれる。
逆にここが揺らぐと、授業への主体的参加は難しい。5年以上の経験と数多くの失敗を積み重ね、僕は、このことを、心から学びました。
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今日のお話は、主観バリバリ火がボーボー?で、客観的にどうこうという話ではありません。
怪しいな、眉唾だな、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。
たぶん、怪しいんでしょう(笑)。
たぶん、眉唾ドロドロでしょう。
人によっては、「音ってのはなー、1秒間にXメートル伝わるもんなんだ、届けるなんて、非科学的な!」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれない。
ま、そういう目でみれば、非科学的なんでしょう(笑)。
でも、しかし、おそらく「実践知」というものは、こういう曰く言い難い「メタファ」 – 例えば、声を届ける – によって構成されているような気もします。そして、このメタファが、実践家にリフレクションを迫ることもある。
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以前ご紹介いたしました「学びの四面体モデル」ではないですけれども、学習者の性質(The nature of learners)に応じて、学びのあり方は変わりますし、当然のことながら「教授する側」や「ファシリテータ側」の「声の届け方」「発話の仕方」が変わる、というのは、たぶん、あることなのだと思います。
学びの四面体モデル:「他人に教える前」に考えておきたい4つの要素
https://www.nakahara-lab.net/blog/2012/08/post_1872.html
昨日のお話ではないですけれど、私たちは、「教える」ということを、日常的に行っています。
「自分の武器」を持ち、「教えること」 : 海外で活躍するビジネスパーソンの語りから見えてくるもの
https://www.nakahara-lab.net/blog/2012/11/post_1895.html
「教えること」は何も学校だけでなされていることではなく、一般の企業においても、家庭においても、なされている人間的営為です
そのとき、一歩立ち止まって、考えてみることもよいことかもしれません。
あなたが話しかけている学び手は「誰」ですか?
あなたの声は、相手に届いていますか?
あなたは「誰」に声を届かせようとしていますか?
少し立ち止まって、考えてみると、ふっと違ったものが見えてくる気もいたします。
もし、自分の声が「中空」を漂い、「誰ひとりも手をあげてくれていないような感じ」がしたのなら、一歩立ち止まって、声を「届けること」に思いをはせても、無駄なことではないかもしれません。
そして人生は続く
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■2012/11/08 Twitter
href=”http://twitter.com/nakaharajun/statuses/266554442889973761″>23:55 OJTが普及して、半世紀立ちました。半世紀前とは、産業のあり方も、企業の競争優位の源泉も、雇用システムも、変化しています。仕事経験が能力形成に果たす役割は大きいことは言うまでもありませんが、それでも、まだ、今までと同じ人材育成システムで、対応可能なのでしょうか。
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■2012/11/07 Twitter
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