2011.6.8 13:07/ Jun
教育実践にとって「ドキュメンテーション(記録)」とは非常に大きな意味をもっています。
実践とは「かたち」のないものであり、かつ、刻一刻と変化します。ともすれば、教授者は実践の中で立て続けにおこる出来事に追われ、自己の実践への内省を失います。学習者の方も、何を学んできたのか、その意味がわからなくなります。
いずれにしても、ことさらの努力をしなければ、それは「忘却のかなた」に埋もれてしまいます。
教育実践におけるドキュメンテーションの第一の意味は、その「実践の内容を振り返ること」「学んだことの意味を振り返ること」にあるでしょう。ほおっておけば「忘却の彼方」に消えていく実践を「ドキュメンテーション」し、おりに触れて、教育の提供者であり、学習者が、自分の実践・活動を「内省」することが求められるということです。
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しかし、「ドキュメンテーション」の意味はそれだけなのでしょうか。僕はそう思いません。
むしろ、そのことに加えて「ドキュメンテーション」は、「実践を豊かにすること」、すなわち「実践に対する多様な人々の参加と、そのことによる革新」に寄与するのではないか、というのが、今日のお話しです。
現在、ワタリウム美術館で開催されている「驚くべき学びの世界展」を見ていて、そのことを痛感しました。
驚くべき学びの世界
http://www.watarium.co.jp/museumcontents.html
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「驚くべき学びの世界展」は、世界トップクラスと言われる「イタリアのレッジョ・エミリア市における保育実践」の記録展です。
レッジョエミリア市の保育実践について書こうとすると、それだけで本が3冊くらい書けちゃいそうですし、僕は「子ども」の研究はしていないので(TAKUZOという子どもちゃんとは日々接していますが)、それは差し控えます。
で、敢えて、保育教育関係者に、「便所スリッパ」で後頭部を「パチーン」とひっぱたかれるのを覚悟して、またまた「ワンセンテンス」で言い放ってしまいますと、
レッジョエミリア市における保育実践とは、
「子どもたちが、自らの興味にしたがい物事を探求し、保育者が環境整備や準備をすすめながら、それをゆるいカリキュラムに仕立て上げていく」
というような「ゆるい探求型のプロジェクト学習」に特徴があると僕は思います。それは「アート教育」の文脈で語られることが多いですが、その本質は「探求」、これでしょう。
そして、この「探求型のプロジェクト学習」を支えているのが、「ドキュメンテーション」です。レッジョエミリアでは、日々の保育実践を、丁寧に写真、動画、作品で残して、記録しているのです。
これら「記録」が、子ども、教師のみならず、様々な人々に目に触れる。それが、さまざまなかたちで、さまざまな人々の目にふれることによって、実践が「豊か」になるような「仕掛け」として機能しているのです。
このことは、昨年、NTT ICCでのシンポジウムで述べたことですが、「ドキュメンテーション」の本質とは、「実践を記録すること」だけではないのです。「実践にかかわる人々のつながりを再組織化・再構造化すること」、そのことによる「実践の革新」にこそ、その真価があるような気がするのですね。
ひと言でいえば、
ドキュメンテーションとは「実践のエコシステム」をつくることである
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具体的にいうと、こういうことです。
まず、子どもたちの様々な活動は、ドキュメンテーションされます。アートとしても成立するほどのクオリティで。これが「企画展」としてまとめられ「展示」されているのが「驚くべき学びの世界展」の一部の作品なのではないか、と思います。
まず、ドキュメンテーションは、子どもにとってどのような意味をもちうるでしょうか。すぐに思いつくのは、子どもたちは、このドキュメンテーションをみて、次の学習をすすめることができたり、リフレクションをすることができることです。未来の学習・活動を組織化するための「資源」として、ドキュメンテーションが利用される。
一方、教師にとっては、このドキュメンテーションは、生徒に興味関心を、ゆるいカリキュラム、プロジェクトとして組織化するためのリソースになりそうですね。また、日々の実践を振り返るための資源にもなるでしょう。
これは実践やワークショップを組み立てたことのある方ならおわかりになると思うのですが、「ゆるいカリキュラム」や「学習者中心主義的なカリキュラム」を組織化しようとするほど、それをうまく成立するために、様々な「情報」が必要になります。「ゆるいカリキュラム」「学習者中心主義的なカリキュラム」は、そのつど、そのつど、現場で起こった出来事に対して、教授者側に即興的な判断を求めるからです。
ドキュメンテーションは、そうしたカリキュラムを成立させるための「資源」であり、即興的な教授力量を向上させるための資源でもあると思われます。
さらに、ドキュメンテーションは、教育実践に関係する子どもや教師を超えて、地域の親、コミュニティにも公開されます。そうすると、そういうことに興味関心をもつ人々があらわれて、そこに場合によっては、参加したり、協力してくれる人がでてきます。
「やっていることがわかる」「やっていることの価値が見える」というのは、「人々の協力を促す資本」として機能するということです。「資本としてのドキュメンテーション」という新たな視点が、ここで浮かび上がります。
さらにドキュメンテーションは、「海」を越えます。
レッジョには、世界から様々な人々、学者、実践者が訪れるようになり、彼らが新たな視点を提供し、現場は活性化する可能性がでてきます。
場合によっては、「さらなる実践の革新」につながる可能性もあるでしょう。場合によってはファンドレイジングの可能性もでてくるかもしれません(もちろん、悪い影響もでてきます)。
でも、いずれにしても、生まれうるものがあります。
ドキュメンテーションによって生まれうるのは「変化」なのです。
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あと、もう少しで次の予定がありますので(笑)、「大人の学び」と「ドキュメンテーション」について、詳細は書けなくなってしまいましたが(泣)、ここまでお読みいただけた方は、この後の展開が、だいたい想像はつきますでしょうか(笑)。
たとえば、企業人材育成の現場で、なかなか全社の協力を得られない、現場の理解が得られない、という問題が存在するとします。
もちろん、このアポリアが、「ドキュメンテーション」という単一の努力だけで解決するとは、僕は思いません。
しかし、一方で、この問題を解決するためのひとつのヒントとして、「ドキュメンテーション」という概念は、ひとつのヒントを提供します。
あなたが企画した「善きこと」は、どのように「ドキュメンテーション」され、誰に対して、どのように伝えられているのか、ということです。そもそも「ドキュメンテーション」さえなされていないとしたら、そこに問題解決のヒントがあるのではないか、ということです。
「現場に居合わせてはいないけれど、あなたが協力を得たい他者」から、協力、理解、参加を求めるのならば、「そこで生じている出来事」をドキュメンテーションし、それを相手に了解可能なかたちで提示し、理解してもらい、価値を感じてもらう必要があるのではないか、と思うのです。そして、そのための「ドキュメンテーション」を、私たちは、今までいかに行ってきたのか、と問いは続きます。
私たちは、何をどのように記録し、誰の目の前に「可視化」することができるのでしょうか。
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企業外部でも、同じことが言えるかもしれません。
たとえば、今、「企業外部における大人の学習の場」をどのようにしてサスティナブルに、かつ、魅力的なものとして運営していくか、という課題があるとします。
この問題の背後も「ドキュメンテーション」の問題が横たわっているように、僕には感じます。
ここで行った実践を、いかにドキュメンテーションするのか。それを使って、誰のどのような理解を得るのか。そしてソーシャルメディアを使って、いかにそれをバイラルをおこし、新たな革新につなげていくのか。
自分がかつてやっていた「ラーニングバー」はおかげさまで、非常に大きな広がりを得ることができました(ありがたいことです)。しかし、この現象も「ドキュメンテーション」という概念で説明がつくのではないか、と思うようになりました。そういえば、僕は、ラーニングバーをやるたびに、そこで起こった出来事を熱心に「ドキュメンテーション」していました。ブログで、そして、ソーシャルメディアで。
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今、少し考えていることがあります。
「ドキュメンテーション」に関する研究会を開こうかな、という「プチ企画」です。
最近、本当に息をつく暇もないくらい忙しいのですが、こういう「プチ企画」を考えているときが、僕は、一番、イキイキしているような気がします。そういう会を企画しだせば、さらにさらに忙しくなるのにもかかわらず。
僕は、動きの中で考える。
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